不可能を可能にする。

科学技術の発展とは、不可能を可能にすることかもしれない。そしてその「不可能を可能にする」とはあらゆる意味で非常に挑戦的であり、そのことを人生の目標にすることは人間としての大きな発展をもたらす。僕も今、不可能を可能にする挑戦をしている。何に関してそのような挑戦をしているかというと、それは一つの事ではなく複数の事に対してである。学問における挑戦、日常生活における挑戦、あるいは人付き合いにおける挑戦である。

そのような挑戦を成し遂げるためには、多方面の事に対して感覚を磨かなくてはいけない。頭脳における思考の感覚を研ぎ澄まさなければいけないし、精神的にも強くならなければいけない。そして外見も内面も魅力的にならなければいけない。もちろん人間であるからには歳を取って行く。野球選手なら身体能力の衰えによって引退する時が来る。イチロー選手でさえそれには逆らえず、先日引退を発表した。しかし精神というものは歳とはあまり関係ない。いくつになっても精神を研ぎ澄ましていくことは出来るし、逆にどれだけ若くても衰えて行く人もいる。外見に関してはもちろん若くはならないが、歳なら歳で魅力的な外見があるはずだ。そのような外見は単に見かけだけの装いだけでなく、生き方や振る舞いから醸し出されるものもあるだろう。従って、外見とは人間の中身も大きく表現されるものである。

不可能を可能にする挑戦、それは外見も精神的な内面も光らせる。だから小手先の事で繕うなどとするのではなく、そのように根本的な所から取り組まなければならない。時には失敗することもあろうし、嫌われることもあろう。しかしそれはそれでいいのである。僕はそのような失敗を大切にしている。不可能なことがすぐに全て可能になるはずはない。それを成し遂げるまでには気の遠くなるような失敗を繰り返すことになるであろう。そこを乗り越えていく原動力になるのは、明確なビジョンだ。ビジョンが芯を作る。ビジョンなき野望は張りぼてである。

実は可能であろう事を可能にすることもそんなに簡単な事ではない。当たり前のことを当たり前にすることの難しさは、プロスポーツ選手を見てもよくわかる。それが出来るプロが十人いるとすれば、不可能を可能に出来る人は更に一人二人である。しかしだからと言って初めからあきらめるわけにはいかない。もしビジョンがはっきりとしており出来る可能性があると思うならば、そのような可能性に挑戦するのも人生表現として一つの手段であると思う。

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