ミクロとマクロを結ぶ。

ミクロとマクロは対極的な概念であるが、それと同時に一つの事象の表裏でもある。ある側面ではミクロ的な様相を見せ、またある側面ではマクロ的な様相を見せる。なので、ミクロ的な側面とマクロ的な側面の双方を理解することが、本質を掴むためには重要である。

それらのことは、学問に関しても言える。物理学ではミクロの極致は素粒子論であり、マクロの極致は宇宙論である。生物学で言えばミクロの極致は分子生物学であり、マクロの極致は進化論や生態学だと言える。そして、それらの二つの極致は、研究が発展する中で融合へと向かう。例えば、素粒子論的宇宙論などがあり、分子進化学などがある。それらの片方だけを見ていれば何かを見失ってしまう。なぜならマクロはミクロの集合体であるから、マクロを本質的に知ろうと思えばミクロを知ることは不可欠になる。またミクロ的事象はマクロ的世界の中に存在する。

ここでは物理学と生物学を例に取ったが、そのような事は普段の日常においても言えることだ。社会を理解するためにもミクロとマクロの双方を知ることが必要だし、人間付き合いにおいても大局と細部を把握することが必要だ。それはつまり、広い視野を持たなければならないと言うことだ。普段の行動において計算ばかりしていてもやはり空気と言うものを読む必要に迫られる。意外と計算だけに基づいて行動を起こす人は、結果的に上手くはいかないのではないだろうか?そのようなことは、意外にも科学の研究から学び取ることができる。科学と言えば計算・論理一辺倒に思えるが、それを行うのは人間である。最近ではコンピューターが計算を行ったりもするが、それらのコンピューターを制御しているのは人間である。計算と論理を推し進めると同時に、その背後に人間の意志の存在が必用である。

しかし世の中全般を見れば、感性や感情などに傾いているように思える。その割には見当違いのところで計算にこだわったりする。そのような感性と計算の使い分けは、やはりある程度人間のセンスの基づくのではないだろうか。つまり、そのようなセンスがない人が多いと言える。もちろん、徹底的に論理で攻めなければならない場面もある。その時は論理的思考力で徹底的に推し進めなければならない。大局的な視点を持ち。ミクロとマクロ、そして計算と感情を使い分ける柔軟性が必要なのではないだろうか?

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