やまゆり園事件から2年、断じて許せないもの。

知的障がい者施設、津久井やまゆり園での殺傷事件から26日で2年が経った。戦後、国内では経験したことのないような殺傷事件は、日本国民に何を問いかけたのだろうか?

まず初めに、言うまでもないがこの事件は断じて許されないものである。犯人の植松被告に対しては厳格な判決が求められる。

しかしその一方、植松被告の主張に賛同する一部の日本人がいるともよく聞く。その理由は次のようなものである。

意志疎通のできない知的障がい者は世の中で生きている意味がない。

と。

植松被告は「心失者」という言葉を使っているらしい。植松被告がどのような意図を持って心失者という言葉を使っているのかわからないが、その字から推測すると、心、すなわち意志がないと言う意味だろうかと思う。しかし本当に知的障がい者には心がないのだろうか?

僕は、意志疎通ができないというのは心がないということとは全く異なると思っている。意思疎通ができないというのは意志を表現できないということであって、意志がないという意味ではない。意思疎通困難者の中には内に秘める心、すなわち意志が必ず存在するのだと思う。

全く話は違うが、先日亡くなった理論物理学者のホーキング博士は、現代のコンピューターによる補助がなければ意思疎通が困難だったと言える。実際はコンピューターを使って縦横無尽にコミュニケーションを取っていたのであるが、そんなホーキング博士を意志がないとは誰も言わない。それどころか健常者以上の意志と思想を持っている。

意志疎通困難とは見かけだけの話であって、それを意志がないということは人間性を正しく判断していない。しかし植松被告の主張は、一般日本人が持つ偏見に対して一石を投じるものであると思う。実際に植松被告の主張に賛同する者は一部とはいえ存在する。さらに表だって賛同するわけではないが、偏見を持っている人はそれ以上いるのかもしれない。

しかしこれ以上そのような偏見を蔓延させることは許してはならない。植松被告の主張を綿密に分析し、それを偏見の解消へと変えることが強く求められていると言えよう。

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