「聖戦」という名の虐殺

戦争を起こすにあたって「聖戦」という言葉を掲げる国、および過激派組織がある。この聖戦という名の下の虐殺は今に始まったものではない。宗教が存在する時代のどこかに聖戦が勃発する。

現在で言えばイスラム国(ISIL)がそうであろうか。

聖戦という言葉を掲げることによって、殺りくを美化するということはあってはならない。美化されるような殺りくなんて存在しない。

聖戦の一番怖いところは、殺りくを美化することによって精神的な歯止めが利かなくなることである。聖戦は無制限な殺りくを助長する。人を殺すことに達成感さえ与えてしまうのである。

聖戦といえば最近はイスラム過激派組織の専売特許みたいになっているが、歴史を紐解くと決してイスラムだけでなく、キリストも、あるいは他の宗教もやっていたことである。

そういえば、3月20日はオウム真理教の地下鉄サリン20年目であった。このオウムのテロも聖戦的な要素を帯びている。人を殺すことによって救済されるという、一般市民には理解しがたい教義がまかり通り、オウム周辺では日常的に殺人行為が行われていたのである。

宗教組織は社会の中で独立した色彩を帯びており、公権力の介入は極力控えられている。しかしその独立された影の中で危険な色彩を帯びていく宗教団体はいつの時代にも存在する。

聖戦、それは人類平和の完全なる敵である。聖戦で救われるものは何一つない。非人道的な集団がある限り、必要最低限の戦争は必要悪かもしれない。しかし聖戦だけは決して許してはいけない。

 

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