自分改革。

人間というものは、その気になれば変われるものなのかもしれない。ただし、周りが変えようとしても自分が変わろうと思わなければ何も変わらない。もちろん、長年続けてきた自分というものは簡単に変えられないが、強い信念に基づいて実行すれば何とか変われるものである。

僕は今、自分改革をしようとしている。なぜそのような事をしようと思ったかというと、今までの自分のままでは限界があると感じたからだ。もちろん、簡単に変えられるとは思っていない。まずは自分で自分を変えようという強い意志が必要だし、そしてただ単に思うだけではなく行動しなければならない。しかしこの行動というものが非常に難しい。これまで意識的にも無意識的にも避けていたことに取り組まないと前には進まない。しかし最近、ようやくこのような事を実行できるようになった。実行するまでは非常に大きな障壁があるように感じていたが、その壁を乗り越えると後は何とか進めそうだ。

しかし油断すると、すぐに元に戻ってしまう。意識的に取り組み続けることが重要だ。そもそも「改革」というものは非常に大きなものである。「変更」は出来ても「改革」まではなかなか成し遂げられない。自分を変えるだけなのに、それが非常に難しい。しかしこれからの事を考えると、改革する価値は非常に大きい。自分が何を成し遂げようとしているのか?そしてそれを成し遂げるためにはどうすれば良いのか?そう考えた時、自分を改革することは必要不可欠だと考えるようになった。

改革とは非常に大きなものに思えるが、胆は根幹となる一つの事を変えることだ。その根幹部分を変えることが出来れば、後は芋づる式に解決して行く。そして全てが良い方向へと進む。今、僕が取り組んでいる問題を解決するために、まずは自分を変えて効果的に取り組んで行く必要があると強く思っている。それが今の僕の自分改革の原動力だ。

人に迷惑をかけていいという発想。

日本人は、いや、日本人だけではないかもしれないが、人に迷惑をかけてはいけないという意識が強いように感じる。もちろん、迷惑をかけないに越したことはない。そして出来るだけ人に迷惑をかけないで生きるぞと思うことは非常にいいことだ。しかし、そのような「人に迷惑をかけてはいけない」という意識を他人に過度に押し付けるのは問題であるように思う。迷惑をかけてはいけないという意識の押し付けが、その人を追い詰めることがあるからだ。結論から言うと、ある程度の迷惑はかけても良いと思う。それぐらいの社会的ゆとりは許さなければならない。

なぜある程度の迷惑はかけてもよいのか?それは多少迷惑をかけても良いという意識が、それ以上のメリットをもたらすからだ。特に創造的な活動を行っている人は、どうしてもある程度の迷惑をかけることは避けられない。そこで絶対に迷惑をかけてはならないと制約を付けてしまうと、何の結果も出せなくなってしまう。小さな正義にこだわる人は、大きな正義が見えないのだ。結局、人に迷惑をかけてはならないと押し付けることが、周り巡って自分にダメージとして帰ってくる。物事とは大局的に捉えることが重要なのである。

自分本位の考えではなく、もっと幅広く思考してみることが大事だ。そうしてみると、ある程度の迷惑はかけてもよいのではと思えてくる。自分も少しくらい迷惑をかけられてもよい。人に絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、自分には絶対に迷惑をかけるなという思考の裏返しなのである。従って、絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、非常に自分本位な思考なのである。この様な考えをしていると、何でも自分のためと思考が進み、他人を助けることが出来なくなる。

最近、人が困っていても助けないという人が多くなったとよく聞く。そこで助けないとは、そのことに関わらないということである。関わらなければ、そこで責任は生じない。従って、自分がその人に迷惑をかけていないという事になる。果たしてそれで良いのか?このように考えると、多少の迷惑をかけても良いという意識が社会の中にある方が、世の中ははるかに良くなのではないかと思えてくるのだが・・・。

スランプから脱出か?

僕はここ半年ほど、スランプに陥っていた。原因はストレスだ。苦しい事はそんなに気にはしないが、ストレスによってパフォーマンスが低下するのなら、それは絶対に避けたい。この半年ほど、スランプからどう脱出するか試行錯誤しもがき苦しんだが、今になってやっと脱出する見通しが立ってきた。

ストレスは百害あって一利なしだ。なのでストレスは何が何でも絶対に避けなければならない。僕自身、ストレス耐性は非常に弱い方だ。それはどうやら意志の強さとは関係ないようだ。自分がどのような場面でストレスを受けやすいか?そのような事を考えながら未来の行動を予測して実行することが重要かもしれない。

しかし、現代社会ではストレスを100%避けることは不可能だ。なので最低限のストレスで抑えることが重要だ。それと同時にストレス耐性を上げる事も重要かもしれないが、僕はどうすればストレス耐性を上げられるか、全くわからない。

とは言え、現在スランプから脱出できそう(できた?)なので、この調子を持続しつつ今取り組んでいることをしっかりと仕上げたい。僕が今取り組んでいることは非常に大きく難しい事ではあるが、スランプを脱出したことによって成功確率が60%から90%に上がったと思っている。後は細部を埋めるべく努力するだけだ!

保険・保証中毒。

世の中には保険・保証が溢れている。保険・保証があるから安心して物事に取り組んだりすることが出来る。社会において、保険や保証は非常に大事なものだ。

しかし、この保険や保証がある事が当たり前になった社会において、世の中の人は保険・保証中毒になってはいないだろうか?保険や保証がないと動かない。保険や保証がないと安心できない。確かに保険や保証は安心をもたらすであろう。しかし時には保険がなくても前に進めなければならない時がある。さらに言えば、人生に対して常に保険を求めていればチャレンジなど全くできない。もちろん、保険がないと動かないというのも一つの手かもしれない。しかしそのような人が、チャレンジする人間に対して言及する権利は全くない。保険を求めている人に、チャレンジする人間の意志など理解できるはずはないのだから。

チャレンジというものは、時には命さえも懸けなければならないことがある。チャレンジとは危険地帯に出向くことであるとも言える。保険を求めることは安全地帯に留まる事である。危険地帯に出向く人と安全地帯に留まる人を同列に扱うことはできない。

もちろん、どうでもいい事に対してまで危険にさらす必要はない。そのような事に対しては保険を掛ければ良い。しかし、何事に対しても保険がないと動けないのは人間の精神的には健全ではないと僕は思っている。しかし近年の世の中には保険を掛けないと動けない人があまりにも多い。あまりにも多いがために社会システムまでもが保険を前提とした仕組みになって来ている。これは社会の在り方として正常なのか?病んでいるのか?どちらにしても、チャレンジする人をもう少しサポートするような仕組みが出来てもよいのではないだろうか。

数学とは本質を抽出して行く作業だ!

数学というものに対する認識は人それぞれ違うと思う。しかし人それぞれ違うとは言え、それぞれが数学というものに対してどのようなものかという認識を持つことは大切だ。もしかしたら人によっては、レジで計算するために必要なものだというくらいの軽い認識かも知れない。しかしそのような認識でも何も持たないよりかははるかにましだ。

研究レベルの数学に対しても、数学者の数学に対する認識はそれぞれ違うと思う。しかしそのような違いがあるからこそ、多様性のある数学の世界というものが出来上がる。そして一人の研究者にとっても、数学というものに対する解釈の仕方は複数あるかもしれない。僕自身もいくつかの解釈を持っている。なので表題の「数学とは本質を抽出して行く作業だ」というものは、その一つと捉えてもらいたい。

数学というものに取り組む時、「本質は何か?」という問いは非常に重要である。数学の深化とは、本質を切り出していく方向へ進むことである。もちろん数学の中にも純粋数学や応用数学と言われるそれぞれ毛並みの違う分野がある。特に応用数学に関しては、純粋数学によって切り出された本質を具象化する方向へ進むものである。とは言え、数学の本質を抽出して行く作業はどのようなものでも必要不可欠な作業だ。なので、数学を「本質を抽出して行く作業」だと捉える事は的外れなものではないと思う。

近年、学問がますます実用重視になって来ているように思う。お金に結び付く応用研究に重点が置かれ、すぐには実用化されない基礎研究が軽視されている。その基礎研究の究極が数学である。しかし、応用研究というものは、基礎研究の成果の上に成り立っている。従って、現在の基礎研究軽視は将来の応用研究から出る実用化にも大きく影響してくる。もちろん企業の開発現場であればそのような事もわからない訳ではないが、教育現場での基礎学問軽視は非常に問題があるように思える。

現在の社会の中には、「役に立つものを出せ!役に立たないものはいらない!」という圧力があるように強く感じる。学校現場でもそうである。社会に直接役に立つものか、受験に利用できる事に重点が置かれているのではないだろうか?そのような社会や教育現場の短絡的な風潮に危機感を感じているのは僕だけではないはずだ。

倫理に敏感になりすぎた社会。

倫理というものは社会の規範に依存する。従って、絶対的な倫理観というものがあらかじめある訳ではなく、社会、すなわち人々の意識の持ちようによって倫理は変化して行く。もちろん、誰が考えても絶対的に正しい倫理、間違っている倫理というものはあるのかもしれない。しかし多くの倫理は大衆迎合的であり、多くの人の意見、多くの人の意識に迎合する方向へ変化して行く。

倫理は非常に大事だが、日々の生活の中であまりにも倫理に過敏になりすぎるのは非常に問題である。そのような過敏な倫理観そのものが、人々を社会で生きにくくするためだ。倫理にはある程度の曖昧さ、ゆとりを持たせなければならない。そのようなあいまいさを持たせられなければ、人々に対してどのように行動すべきだと絶対化し、皆無難で画一的な行動を即すことになる。

人間の生き方、そして人間性は非常に多様性のあるものだ。しかしそれを否定し画一化すると、それはもう人間と呼べない。行動の自由が限定化され、思想の自由が全くなくなってしまう。思想は人間の人間であるが故の源泉であり、思想が無くなれば人間的活動をすることが厳しくなる。この事はこれからのAI社会においては真剣に議論すべきことである。人間は決してAIではない。だからこそ、人間が人間であるためにはどうすれば良いかということをそれぞれが深く考えることが必要である。

今、スマホ一台で何でもできる世の中になって来ている。だからこそ、何も考えないで軽く生きていると、スマホに人生を操られることになる。スマホはあくまで自分の人生における便利ツールであり、人生そのものではない。しかし現実は人間がスマホに合わせて生きていると言う事が起きている。何もスマホの存在を否定するつもりはない。僕だってスマホをかなり活用している。しかし以前のブログで書いたように、YouTubeアプリをあえて削除するなどして自分の生活を自分でコントロールすることが必要だ。これからの社会は、自分をコントロールできる人間と自分をコントロールできない人間の二分にされるのではないだろうか?それによって社会の構造も恐らく大きく二分化されるであろう。どちらの世界に入るかは、それぞれの人間の意志にかかっている。

IT社会の今、日本はどのように舵を取れば良いのだろうか?

近年、社会におけるプログラミングの重要性がますます高まっている。それに伴って、学校教育においても、小学校からプログラミング教育が導入されることが決定されている。初めは試行錯誤で手探りの教育になることが予想されるが、それらが洗練されるのにはおそらく二十年はかかるものと思われる。

日本でプログラミングの重要性が議論される時、ほとんどの場合GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の話が持ち出される。もちろん、これらの企業に共通するのはITであり、つまりプログラミングであるので、これらの事例を見てプログラミングの重要性へと話が進むのは分からない事ではないが、ただプログラミングの技術だけを高めればITで覇権が取れると思い込むのは早とちりではないだろうか?なぜなら、AppleにしてもFacebookにしても、そしてMicrosoftにしても、それぞれ世界で一、二を争う企業ではあるが、ジョブズが、ザッカーバーグが、そしてビルゲイツが世界で一、二を争うプログラマーである訳ではない。ジョブズやザッカーバーグ、ビルゲイツはもちろんIT技術は高いものを持っているだろうが、彼らが世界トップの企業を作るのに成功したのは、確実壮大で未来を見据えたビジョンを持っていたからではないだろうか?今、日本に一番欠けているのは、技術そのものではなく、むしろビジョンの方である。技術を高めるのは短期間である程度出来るであろうが、ビジョンを持てる人材を養成するのは一朝一夕では出来ない。日本ではこちらの方の教育が完全に欠けている。

なぜ日本の教育はビジョン構想には向かないのか?それは一番に受験システムに問題があると僕は考えている。そもそも学校は、大学は、何のためにあるのか?それはもちろんそこでの教育を通じて教養や技術、知識を身に付けるためである。しかし現在の教育システムでは、受験そのものが最大の目的になっている。受験技術をどれだけ身に付けるかという教育を推進する限り、ビジョンを持てる人間を養成するのは非常に難しい。学校に入ること自体が目的ではなく、入ってから研鑽することが重要なのである。

今、日本の教育の方向性は本当に正しいのか?この問いに絶対的な答えがないのは明らかだが、ただ正しい方向へ進んでいるとは思えない。もちろん、現場の教育者だけの責任ではなく、国を動かす政治家にも問題がある訳だが、そのような国の舵取りをする人たちの示す方向性が間違えば、数十年単位で致命的な問題になる。しかしだからと言って、政治家だけに問題を押し付けるのも間違っている。我々市民がこれらの問題を自己の問題だと捉え、積極的に発言し行動しなければならない。ではどのように考えれば良いか?それは今現在の問題だけを考えるのではなく、次世代、次々世代の事まで考え、長いスパンで物事を捉えることが必要である。現役世代至上主義で物事を考えることは、次世代の人間だけでなく現役世代に対してもデメリットは大きいのではないだろうか?

回復したようだ。

ここ三日ほどの不調から回復したようだ。なのでまた明日からは良い記事を書ければと強く思っている。(本当は「今日から」と言わなければならないところだが・・・。)

ところで話は変わるが、どこにお金をかけるかということは、その人の人間性やセンスが非常に表れる。そしてもちろん、どれだけお金を持っているかということによっても大きく変わる。近年は失われた二十年の影響か、いかに節約するか?いかにお金を貯めるか?ということに世間の話題の中心が行っているように感じる。もちろん、無駄な出費を控えてお金を貯めることは重要だ。しかしそれ以上に大事なのは、お金を出すべきところで思い切って出すという事だ。そもそも、お金を貯める目的も、出すべきところで出せるようにするという事である。なので、お金を貯めるスキルを身に付けると同時に、お金を出すセンスというものを身に付けなければならない。

僕自身も無駄な出費は極力控えようと思っているが、出すべきところでは惜しまず出すということを心がけている。その中でも、書籍にかけるお金は極力惜しみなく使っている。贅沢などはお金に余裕が出来てからでいい。その時を楽しみにしている。今は自分の未来に対する投資に集中している。

しかし、ただ単にお金を出して自分に投資すればいいという訳ではない。その投資を最大限活用しなければならない。例えば、書籍に投資をするのならば、投資をした後にその書籍を縦横無尽に生かさなければならない。「お金+努力」が最大の成果を発揮する肝である。

同じ条件でも、どう考え、どう捉えるかによって、その後の進路は大きく変わる。お金も同じで、どこに自己投資すべきか?という判断次第でその後の自分の未来が大きく変わる。お金をただ単に貯めるだけでは非常にもったいない。今使うべきところで使い、それで成果を挙げ未来に回収すればよいだけの話である。お金に対する考えは、本当に人間性が表れるものだ。

毎日書きたい気持ちはあるが・・・。

毎日ブログをアップするのは僕の日々のワークになっている。毎日ブログを書き、毎日アップすることは、日々のリズムを整えるのにも一役買っている。しかし、時には調子が乗らずになかなか記事が書けない時もある。記事のストックもない。そのような時に無理に書いて質の悪い記事を出すのも本意ではない。なので一日くらい記事を書くのを休もうかとも思うが、休めば休んだで何だか気持ちが悪い。ならば少し譲歩して、調子が乗らず記事が書けないこと、それを記事にしようと今記事を書いている。本意ではないが・・・。

まぁ、一時的に調子が乗らなくても大概二、三日すればまた意欲も湧いてくると思うので大丈夫だとは思うが、不安な気持ちも少しある。記事が書けないだけならいいが、数学や物理が出来ないのはかなりつらい。ここは我慢のしどきか・・・。

とは言え、少しでも早く調子を戻すのに越したことはないので、いろいろ試行錯誤してみようと思う。自分の調子をコントロールするのも大きな実力である。これまで調子の悪い時もいろいろと乗り切ってきたので、これくらいのことはすぐに乗り切れるとは思うのだが・・・。

スマホから距離を置こう!

最近、スマホを最新型のiPhoneに変えた。最新型に変えたならそれを思う存分に使いこなしたいと思うところだが、僕はこれを機にスマホから距離を置こうと思っている。そのために毎月のギガ数を少なく抑えることにした。

ところで、最近のスマホは年々性能が飛躍してきている。そのような性能をフルに使おうと思うと、一日中スマホ漬けになってしまう。そのようなスマホ愛用者の言い分は次のようなものであろう。

・最新の動画を観ないともったいない。
→しかし動画を観る事に費やしている時間の方がもったいない。

・最新の機能を使わないともったいない。
→しかし機能を使わなくても何も減らない。

そのような事を思いながら、最近スマホ上からYouTubeアプリを削除した。やはり僕も軽いスマホ中毒にかかっていたようで、YouTubeアプリを削除してから動画視聴時間を削減することに成功した。本当に動画視聴時間は無駄である。特にロングスリーパーである僕にとっては、時間を有効に活用しなければ人以上の事をするのは難しい。

新しいスマホに変えるのをきっかけに、スマホの利用の仕方、そして時間の使い方を一度見直すのも大きな手である。普通の人とは逆行する考えかも知れないが、そのような所から差を付けないと上は目指せないと非常に痛感している。