良いところはあるが、欠点もある。

自分自身をどう評価しているのか?自分への正確な評価というものは大変難しいことであり、どうしても自分を色眼鏡を通して見てしまう。そうなると当然、自分への評価は客観的な評価とはかけ離れ、高く見積もってしまう。あるいは逆に自分を卑下しすぎて低く見積もってしまうこともある。大事なのは高く評価することでもなく、低く評価することでもなく、正確に評価することである。

では僕自身はどうかと言うと、高めに見積もってしまう傾向にあるように思える。基本的に自信がある。しかし自信を持つに当たって、その根拠がないわけではない。そしてその高みは、自分をそこへと努力して上り詰めようという目標でもある。もちろんその結果に対する評価は周りが行うことであるが、高い目標を持ってそこへと邁進する力は絶対的に必要だと考えている。

では少し見方を変えて、自分の良いところはどこか?また欠点は何か?という問いを考えてみよう。この問いに対する答えは大きく二つに分かれるだろう。良いところはたくさんあるが欠点もたくさんある。あるいは欠点はないが良いところもあまりない。もちろん凄く良い所ばかりの聖人のような人も世の中にはいるだろうし、また悪いことばかりの人もいるだろう。しかし多くの人は良い所と欠点のバランスが取れている。

ではなぜ良いところが多い人は欠点も多いのか?その大きな理由は、このような人は総じて活動的だからと言えるだろう。自分が進んで前面に出るからこそ、欠点を作ることにもつながる。人生で言えば、大きな成功を成し遂げるためには、それを超えるだけの多くの失敗を経験しなければならないということだろう。もちろん、このような論は少し強引なところがあるが、僕は失敗を重ね、そういう意味での汚点をどんどん作っていきたいと思っている。

良いところも悪いところもない「当たり障りのない人間」だけにはなりたくないと思っている。とは言え、もちろん当たり障りのない人間が悪いわけではない。ただ自分の人生観として、どんどん前に出て良いところも汚点もどんどん作り、足跡を残していきたいと思っている。ただ「フェア」な人間でいることは忘れないように心に銘じておかなければならない。

死を意識することと、死ぬことは違う!

何かに関して窮地に立たされた時、死を意識する人は少なからずいるだろう。そのような「死を意識すること」は、僕は非常に重要な事だと考えている。

社会的には、死ということに対して非常にネガティブに捉えられることが多い。もちろん、生きているということは何より貴重な事であり、普段の生活において死を選ぶということはありえない。

しかし僕は、「死を選ぶ」ということは人間に許された最大の権利だと考えている。もちろん、普段はそのような権利を行使する必要はない。しかし自分の心の中で死を選ぶという選択肢があるからこそ、思い切った行動を取り、思いっきり生きれるのだと思う。

近年は医療や生活の質の向上により、ますます長寿社会になりつつある。そのような事を見ると、現代社会は昔よりはるかに生きやすい社会になったと思うかもしれない。確かに表面的には圧倒的に生きやすい社会になっている。しかし果たして本当に現代は生きやすい社会になったのだろうか?社会の表面的な部分、例えば世の中が便利になったとかそういう部分ではなく、人間的な活動を行う上で本当に快適になったのかということを真剣に考えて社会を築いていかなければならない。

少し話は逸れたが、死というものを徹底的に忌避するのではなく、死を意識することによって生を魅力的にしていくということが現代社会には大きく欠けているように感じる。

深い関係と、表面的な関係。

色々な人と深い関係を繋げることはもちろん良いことだ。僕も様々な人と深い関係を築いていければと常々思っている。しかしだからと言って、表面的な関係は悪いことなのかと言うと、僕は最近はそれも悪くないと思っている。例え表面的な関係であっても、それを基に自分を高め、良い環境を構築していくことはできるからだ。また、ビジネスにおいては表面的な関係が幅を利かせることは良くあることだろう。

僕自身はそんなに人間関係は多様ではないし、少なくても心置きなく話せる少数の人たちがいれば良いと考えている。しかし、多くの軽い関係を築くことは僕の重要な課題でもある。

最近の若者は、社会では必要最小限の付き合いしかせずにプライベートを大切にするとよく聞く。職場での飲み会には参加しないという声もよく聞く。そのような考え自体悪い考えではなく、これからは社会全体がそのような方向へと進んで行くのかとも強く思う。

僕は結構情熱的で熱い人間だ。人間関係にどっぷりと浸かることも多々ある。しかしそれが故に、自分で勝手に傷つくことも多々ある。そのような事を考えると、軽い関係を築き、深く立ち入らないということも、生きる上で非常にポジティブに働くのではないかと考えている。

深い関係と軽い関係をその時々で使い分け、それぞれの良いところを取っていければ、精神的にも良い状態を保つことができ、人生が上手くいくのではないかと考える今日この頃である。

プレッシャーの中で、いかに結果を出すか?

このブログでは何度も大谷翔平選手の名前を出しているが、なぜそこまで大谷翔平選手の名前を出すのかと言うと、大谷選手からは学ぶべきところも考えるべきことも大いにあるからだ。そういう意味でも、大谷選手は人間としても素晴らしいものを持っていると思っている。

大谷翔平選手はあらゆる意味で凄い。打者として、投手として、そして人間として、そしてこれからの可能性に関して。はっきり言って、大谷選手の魅力に僕は惚れている。大谷選手に惚れているのは、僕だけでなく老若男女数多くいるだろう。

ここでは、プレッシャーの中でいかに力を発揮するかということを考えてみよう。しかしこんなことを書かなくても、プレッシャーの中で活躍する大谷選手を見れば、それだけでいろいろと得るところはあると思う。

夢を成し遂げるためには、もちろん努力や才能も必要だが、僕は最近忍耐力が重要だと感じている。もちろん、普通の生き方を受け入れてしまえば、そこまでプレッシャーを感じる必要もないのかもしれないし、どうしても耐えられなくなれば逃げればいいのである。しかし、自分で進むべき道を選び、自分の意志でやり遂げると決めたならば、簡単に逃げることはできない。さらに結果を出すまではあらゆるプレッシャーがかかり、それを耐えるための忍耐力が必要だ。

近年、努力だとか忍耐力とかいう言葉は避けられる傾向がある。もちろん僕もそのような事を人に押し付けようとは全く思わない。楽していきたい人は楽をして生きればいいのである。楽して上手く生きる人も世の中には多くいる。だからそのような生き方を選ぶことは決して悪いことではない。なので、努力だとか忍耐力などという言葉は僕のたわごとだと思ってもらっていい。

人にそのような事を押し付けることははっきり言って良いとは思わないが、自分が忍耐力を持って努力し、夢の実現を成し遂げようとすることに対して、人から非難される筋合いはない。しかし気を付けないといけないことは、無思考で努力を行わないということである。無思考での努力は無駄に終わってしまう可能性が高い。なので、努力をする際はその努力を最大限に生かすように十分考え抜かなければならない。

大谷翔平選手の凄いところは、単に努力するだけではなく、徹底的に考え抜かれているところである。野球は体力勝負だという側面は強いが、大谷選手は「知的努力」を貫いている。

僕自身もいろいろ考えてはいるが、まだまだ考える余地は十分にあると感じている。そして知的努力をしながらも、バカになり切ることも必要だと感じている。バカになり切りバカで終わるか?それともバカを乗り越え成功を掴みとるか?後は成功までの構想をいかに実現するかにかかっている。

所属している組織ではなく、自分を語れる人間になれ!

外国の事はよくわからないが、日本では自己紹介をする時に必ずと言っていいほど自分の所属する組織を名乗る。もちろんそれが悪いわけではなく、所属組織がその人の人となりを表すこともあるが、所属組織名を自分の権威付けのために利用する人も少なくない。

組織で活動する人は、大きく二つに分けられる。一つは組織に大きく貢献して、さらに組織の中で力を付け大きく活躍する人。もう一つは自分一人では何もできないがために、組織という虎の威を借る人。前者の人は多くの場合組織に所属しているかいないかに関わらず、独力でも活躍できる人であろう。しかし後者は、組織名を名乗らないと何もすることができない。

僕が最近重要だと思っていることは、組織に所属しているとか所属していないとかに関わらず、基本的スタンスとして独立していることだ。行動的にも精神的にも独立していないと、軽快なフットワークは生まれない。組織に所属している場合は、組織の規約にがんじがらめにならないためにも、独立精神を持っていないといけない。

自分を語る時、属している組織を語らないと何も語れないような人間になってはいけない。組織ではなく、自分を語れる人間になることが重要である。

いかに大きなリスクを取り、いかにそれを大きな成功へ結びつけるか?

人間は大きく二つに分けられる。リスクを取る人と、リスクを取らない人だ。リスクを取ると言えば金融投資などの金銭的なリスクばかりを考えるかもしれないが、金銭的リスク以上に人生のリスクを取ることの方がより重要で、より危うく、より意味がある。

リスクと成功は表裏一体である。大きな成功を収めるためには必ずと言っていいほどリスクを取る事が必要であり、リスクを取らないで成功することは全くないとは言わないが、ほとんどの場合ありえない。

もちろんリスクを取るということは、失敗する可能性も大いにある。リスクを取りながら生きるということは、人生のギリギリの所での攻防を楽しむということでもある。なぜそのような危険なことが楽しいのか?それは成功した暁にどのようなものを手に入れることができるかということを想像することが快感だからである。さらに危険と隣り合わせであることがスリリングであり、エキサイティングであるとも言える。

もちろん、リスクを冒して夢を追いかけるためには、それなりのしっかりした構想を確立していなければならない。成功までの展望がないリスクは、単なる暴挙でしかない。夢は見るものではなく成し遂げるものなのである。

リスクを取り夢を成し遂げることにまい進している人にとって、普通に生きるということは一番縁が遠いことかもしれない。普通の生き方ではないから、成功するまでは人からは理解されないし、バカにされることもあるだろう。しかしそんなことは、成功することによって納得させればいいのである。

金融投資ではなく自己投資を、そして金銭的リスクではなく人生のリスクを。もちろんこのような生き方をすることは皆に勧められることではないし、むしろほとんどの人にとってはこのような大きなリスクは絶対に取らないほうが良い。しかしこのような大きな人生リスクをとる覚悟と成功への自信があれば、そのようなリスクに飛び込むことは大きな人生チャレンジであり、価値のあることだ。

便利なことは、自由なのか?

近年、ますます便利な世の中になりつつある。しかしその一方、便利であるように錯覚しているだけなのではないかとも感じる。

便利の代表格は、スマホであろう。スマホは確かに便利である。そして最近はスマートスピーカーなるものまで出現している。このように大きく便利になりつつある一方、それらの便利さははたして人間に対する束縛を本当に解放しているのかと疑問に思ったりする。

なぜ科学技術を発展させる必要があるのか?その一番の理由は「自由を得る」ためである。20世紀には自動車が発達し、新幹線などの鉄道網が発達した。それらは確かに人々を便利にした。そして20世紀終わり頃に普及した携帯電話、今で言うガラケーも、当時は非常に便利に思えた。

携帯電話が普及する前は、友人と連絡を取るのにも一苦労だった。ましてや気になる女の子と連絡を取ることは一大イベントであった。しかしそのような不便さが逆に大きな達成感と幸福感を生んでいたのではないかと感じる。

今は好きな女の子がいれば、スマホでボタンをポチっと押すだけで簡単に連絡が取れる。昔のような行き違いなどはほとんどないのではないかと思う。待ち合わせでのすれ違いなども、ラインや電話ですぐに連絡が取れる現在では考えられない。

21世紀も18年過ぎ、爆発的に便利さが発達した。しかしこの18年の技術の発展が果たしてそこに住む人を自由にしたかというと、僕は強い疑問を感じる。確かに物理的には大きく自由になった。しかし精神的に自由になったかというと、むしろ束縛するような方向へと向かっているのではないかと思う。しかもこの流れは前には戻せない。科学技術は前には戻せないという特性を持っている。

この精神的な束縛は、年配よりもIT社会をよく熟知している若者の方が強く感じているのではないかと思う。もう少し詳しく言うと、圧倒的な便利さだけしか感じない人と、その便利さの背後にある束縛を強く感じる人の二極化が起きているのではないだろうか?

便利さとは何か?それによってもたらされる自由とは何か?今そのような事を真剣に考える必要があるのではないだろうか?

科学を哲学する。

科学と哲学は、似ても似つかないものだと思っている人は多い。そもそも大学では科学は理系であり、哲学は文系となっている。しかしこのような理系と文系という区別をすること自体が明らかにおかしいのであって、そのような日本人のステレオタイプな見方は改めなければならないと強く感じている。

科学の中でも、理学系の基礎科学の人と、工学系の技術の人では、科学に対する捉え方が大きく違うように感じる。僕は、基礎科学と哲学は非常に共通するところが多いように感じている。実際僕は、科学と哲学を区別することはなく、科学も哲学であると思っている。ただ科学は対象が“自然”であるというそれだけの事である。哲学を追求することができなければ、自然を追求する科学はできない。

日本の哲学の中心地は、明らかに京都だ。西田幾多郎をはじめとする京都大学の京都学派の伝統は脈々と受け継がれている。京都には哲学の道と言われる通りもある。

哲学と双璧を成すように、基礎物理学の中心も京都である。言うまでもなく湯川秀樹からの伝統であるが、物理をやっている人にとって京都には一種の憧れがあるのかもしれない。また、京都大学には基礎物理学研究所というものもある。

京都という土地は、学問を醸成するにはよい環境なのだろうか?僕は京都に住んだことはないが、京都を訪れると何か独特の雰囲気を感じる。ただ訪れているだけなのに、京都学派の息づきを感じるのだ。

理系だとか文系だとか言って学問を強引に区別するのは明らかに間違っている。科学をするのに哲学的な思考が重要であるように、物事を大局的に捉えるためには分野の垣根を越えなければならない。近年は分野を細分化し、より専門家が進んでいるが、そのような流れは本来あるべき姿とは逆に流れているように強く感じる。

長生きは、善なのか?20代の希望寿命から見て取れる社会の根深い問題。

20代の若者の希望寿命(何歳まで生きたいか?という問い)が80歳を切り、平均寿命を下回ったというニュースがあった。この結果をどう捉えればいいか?おそらくこれまでの社会の価値観と人生観では理解できないことであろう。

これまで、長生きすることは無条件に善であるという価値観が蔓延していた。もちろん今でも長生きが悪だという人はほとんどいないであろう。しかし誤解を恐れずに言うと、生きる権利があるのなら死ぬ権利もあるはずだ。そもそも人間はいつかは必ず死ぬ。そのような100%正しい事実に対して、それを否定するのは逆に人生を否定するものである。

僕が一番大事だと思っていることは、「自分で自分の寿命を決める」ということである。長生きを望む人に対してそれを全力で肯定するのならば、若者がそこまで長生きしたくないという意志もある意味尊重しなければならない。

しかし、この若者が長生きを望まないというアンケート結果は、現在の社会に原因(責任?)がある。おそらく若者にとって現在の社会はかなり生きづらいものなのであろう。例えば、何でも平等、何でも保証。この様な一見良いことだと思われることでも、それが度を過ぎると非常に生きづらい世の中になってしまう。目に見える快適さだけではなく、目に見えない生きやすさを考えないといけない。

もしかしたら、現在のIT化された社会も原因なのかもしれない。一見非常に便利であるように見えるこれらのシステムも、ここまでくると生きづらささえ感じてしまう。実際、僕らの世代よりも現在の若者の方が過去の社会を懐かしんでいるようにも見える。

この20代の希望寿命のアンケートからは、現在の社会が抱える様々な問題が見て取れる。そしてこれらの問題は決して気軽にスルーできる問題ではない。

数理物理学とは?

僕のブログでもしばしば数理物理という名前を出しているが、そもそも数理物理学とはどのような学問なのか?ということを書いて見よう。

何を研究しているか?と聞かれた時、ほとんどの研究者は“分野”の名前を答えるだろう。例えば物理であれば「素粒子論」だとか、数学であれば「微分幾何学」だとか言うだろう。しかし「数理物理学」とは分野の名前ではないと僕は思っている。では何か?それは“手法”の名前である。

数理物理学とは「数学的理論と技術をフルに駆使して研究する物理」だ。だから同じ数理物理学研究者でも、全く違う分野を研究している人がいる。また物理寄りの数理物理学研究者がいれば、数学寄りの数理物理学研究者もいる。ただ確実に言えることは、数理物理を研究するためには数学と物理の知識を両方持ち合わせていなければならないということである。

数学と物理の両方が大好きな人にとっては、数理物理とは天国である。数学でも遊べるし、物理でも遊べる。また学際分野だとも言え、数学と物理の融合の仕方も千差万別である。この融合がまた面白い。

数理物理学の研究者で今世界で最も活躍していると言われている人は、プリンストン高等研究所のエドワード・ウィッテン教授である。ウィッテン教授は同じテーマでも数学と物理の両方の論文を書くことでも有名である。ウィッテン教授の代表作(これがまたたくさんある)の一つであるサイバーグ・ウィッテン理論の論文は、数学者と物理学者の双方に対して大きな影響を与えた。ただウィッテン教授の次の世代が台頭することが望まれるが、ウィッテン教授の勢いはまだまだ健在だ。

ウィッテン教授の研究は絶大なインパクトがあり、「流行を作り出す数理物理学者だ」と言える。しかし世の中の多くの学者は、流行に乗り合わせているというのが現状かも知れない。今多くの物理学者や数学者に対して求められているのは、流行に飛びつくことではなく、流行を作り出せる独創性を発揮することではないかと僕は強く感じている。