数字ではないデータ。

現在のプロスポーツの世界はデータ社会である。その最先端を行っているのがプロ野球の世界であろう。投手の球速は昔から測定されているが、メジャーリーグの大谷翔平選手のニュースを見ていると、打球の飛んだ角度から打球の速さまで、様々なデータが紹介されている。その他にも、投球の回転軸や回転数までもが測定されている。

あらゆるデータを測定し活用することはもちろんメリットが大きいが、僕は必ずしもメリットばかりではないと感じている。例えばメンタル的な部分も大きな要素を占めるし、生きていく中では知らない方が良かったという情報も多々ある。大事なのは、自分がどのような情報を手に入れ、逆にどのような情報をシャットアウトするかという明確な基準を持つことだ。

そして大事なのは、データの中には数値で表せられない要素もたくさんあるということだ。さらに、数値的データも必ずしも完璧ではない。もし数値的データが完璧ならば、全ての人が上手くいっているはずだ。しかし現実はそうではない。

多くの人は「目に見えること」で評価しようとするが、それ以上に大事なのは「目に見えない部分を見る」ということだ。数字ではないデータをどれだけ把握しそれを基にコーディネートしていくか。そのことの重要性を理解していないと、数値的データに振り回されることになってしまう。

精神が勝つか?現実に負けるか?

精神的に瀬戸際に立たされている人は、世の中には少なからずいるだろう。そのような苦しい時には誰かに助けてもらいたいと思ったりもするが、精神的な苦しさは金銭のように数値的に明確化することもできないので、その苦しさを自分の中に抱え、自分で解決することが求められる。精神的な苦しさにセーフティーネットなどというものは存在しない。

何かに挑戦している時、結果が出る直前が一番苦しいのかもしれない。そこでもし結果が出なければもう後はない。しかしそのような崖っぷちに立たされているからこそ、通常以上の力を発揮することができるのかもしれない。

人それぞれ得意不得意があるので、他人が簡単にできる事ができなかったりする。逆に他人には絶対にできないことが自分にできることがある。もしそのようなことがあれば、それに人生を懸けるのも非常にエキサイティングである。ただし他人にそのような事を薦めてはいけない。そのような挑戦は非常にリスクが高く危険すぎる。

今年もあと約1カ月半。来年の中頃には平成という時代が終わる。次の年号がどうなるかはわからないが、自分自身の進むべき道を突き通し、何とか次の時代も生き延びたいものである。リスクのある危険な状態にあるにもかかわらず、ドキドキと非常に期待感を持っている自分もいる。自分の状況は非常に危機的な状況であるが、まあ大丈夫であろう。

万年筆。

僕は普段から万年筆を愛用している。はっきり言って、百円ボールペンやシャーペンでもほとんど不自由することはないのかもしれない。むしろ持ち歩くには、百円ペンの方が便利かもしれない。しかし僕が使っている万年筆は、すでに体の一部となり僕の人生に必要不可欠の一本となっている。

僕の万年筆は特に高価な物という訳ではないが、やはり愛用の一本にするためにはそれなりのものでなければならない。100円のペンではいくら長く使用していたとしても、なかなか愛用の一本にはなりえない。そういう意味では、初めの一本を選ぶときにはかなり吟味した方が良い。

万年筆には太文字のものが多く、店頭で人気なのも太文字の方が多いようだ。確かに太文字の万年筆の方が圧倒的に味がある。太文字の万年筆は、力加減によって様々な表現を出すことができる。しかし僕の万年筆は細文字だ。普段非常に小さい文字を書くことが多いので、細文字の万年筆は重宝している。例えばアインシュタイン方程式を書くには、テンソルの添え字がかなり小さい文字になるので、太文字のペンでは使い物にならない。とは言え、次の一本を買う時は、味のある太文字にしようかとも思っている。

作家などの文筆家は、やはり仕事道具となるペンにこだわる人が多いとは思うが、ただそれが飛びっきり高級なものであるとは思えない。やはり芸術品レベルの超高級万年筆は、実用的観点から見ても仕事ではあまり使い物にはならなさそうだ。僕自身も超高級万年筆が欲しいわけではない。それよりも自分の手足となって酷使に耐えることのできる一本が欲しいのだ。

今、ひそかに欲しいと思っている万年筆がある。しかしその万年筆を手に入れたとしても、現在使用し続けている手に馴染んだ万年筆は、壊れない限りは一生使い続けると思う。

学問を極める。

学問を研究している人の多くは、専門を定めてその専門分野を極めることを目標にしている。しかしトップクラスの研究者の多くは、専門分野以外の学問に対しても極めている人は少なくない。学問というものは一見関係のない分野に見えても、その基盤においてはかなり共通するところが多く、一つの分野を極めることが他分野を極めることにつながることが少なくないのだ。

学問に対する姿勢は人それぞれ違うが、一つの姿勢として学問なら何でもアリというのも非常に意味のある有効な手段だ。逆に一つの細分化された分野にこだわり過ぎると思想のたこつぼ化を招き、広い視野が保てなくなる危険性がある。

学問を究める事は非常に楽しくエキサイティングだ。万人がそのように感じるわけではないかもしれないが、少なくとも僕自身はそう感じているし、これまでそのようなエクスタシーに浸っている研究者を何人も見てきた。学問の発展はそのような人のエクスタシーから生まれるのだと僕は思っている。

学問の本質は専門化や細分化にあるのではなく、むしろ何でもありの複合化にある。少なくとも理系・文系などと隔離するのはナンセンスでしかない。とは言え、得意不得意があるのは仕方がないことだが、そこを克服するのも学問の研究には不可欠だ。という僕自身は“英語”という呪縛から全く抜け出せないでいるが、それも僕自身に課せられた試練なのかもしれない。

論。

論が立つのと、論の根っこを押さえるのは違う。論が立つ優秀な人は多い。論を立てるためにはかなりの知識を要するが、多くの知識を網羅し物事を解析できるからと言って、論の根っこを押さえられるものではない。論の根っこを押さえるとは、物事の要所を押さえることだ。つまり論を押さえるためには、知識を身に付けるだけではなく本質を掴まなければならない。

テレビ番組「朝まで生テレビ(テレビ朝日)」を見ていると、そのことがよくわかる。出演しているパネリストを見ていると、皆非常に論が立つ。多くの事を様々な方向から解析して見せる事には皆非常に長けている。しかし田原総一郎氏はそれだけではない。彼は論の根っこを常に押さえている。逆に言うと、非常に優秀な多くのパネリストたちは、論が立っても論の根っこを押さえていない人が多い。この番組は論の根っこを押さえている司会者・田原総一郎氏がいなければ成り立たないのだ。

ビジネスでもプレイヤーとしては優秀でも、管理職に昇格した途端平凡なマネージャーになってしまう人が多いとよく聞く。それは先ほどの論の話と同じで、マネージャーは物事の根っこを押さえる事が重要だが、それができていないからだと思われる。プレイヤーとマネージャーには異なった資質が要求される。

論を立てるためには勉強すればいい。しかし論の根っこを掴むためには単に勉強すればよいというものではない。勉強する論の奥にある本質を見抜かなければならない。では物事の本質を見抜くためにはどうすればいいか?そのための明確な訓練があるかどうかはわからないが、とにかくただ単に知識を吸収するだけではなく、とことん考え抜くことが必要だということは明らかだ。

内面は外見を上回っていなければならない。

たまに「外見は関係ない」という人がいる。しかし僕はそれは違うと思っている。正確には「内面は外見を上回っていなければならない」ということだと僕は考えている。

僕自身、身なりなどの外見には気を使う方だと思う。外見にも結構高いハードルを掲げるように心がけている。(それがどれだけ実行できているかはともかく。)ではなぜ外見に高いハードルを掲げようとするのか?それは内面がその外見を上回るくらいに持っていくことを目指しているからだ。つまり外見に対する高いハードルは同時に、内面に対するそれ以上高いハードルでもあるのだ。

もし内面が外見を下回っていれば、それは単なる見かけ倒しであり、張りぼてである。それを防ぐためには二通りの方法しかない。一つは内面の低さを隠すために外見をそれ以上低くすること。もう一つは外見のハードルを上げ内面をそれ以上に高めることだ。

もちろん、外見が質素であっても素晴らし内面を持つ人はたくさんいる。しかし僕がこれまでに出会った「人間は内面だ」と口に出す人は、内面もほぼ例外なくみすぼらしかった。立派な内面を持つ人は「人間は内面で勝負だ」とは絶対に言わない。

外見が質素であることは全く悪いことではなく、むしろ素晴らしいことである。そのように質素な外見を貫くことは一つの強い信念であり、外見に向ける気力を内面に向け内面を磨くことは非常に素晴らしいことである。しかし人間が実世界で生きている以上、まず人間の目に飛び込んでくるのは外見であることは紛れもない事実である。なので外見を高めイメージ戦略を行うのは非常に意味のあることだ。まずは外見によって自分のイメージを相手に伝え、その上で内面をアピールすることができれば自分の魅了は二倍にも三倍にもなるのだと思う。

不完全な知識で物事を判断することの危険性。

物事を判断するに当たっては、過大評価することなく、かつ過小評価することもなく、正確に判断することが重要である。そのように正確に判断するためには、それに対する知識を正確かつ完全に認識することが必要である。さらにそれに基づく思考を正確に行うことが重要であることは言うまでもない。

不完全な知識に基づいて判断するとどうなるか?自然、そこには想像的な要素が大きく入り込むことになる。想像することは重要かもしれないが、可能な限り現実に基づいて判断を下さなければならない。もちろん、どのような判断に対しても知識が100%完全であることはありえないので、どうしてもある程度の想像が必要にはなるが、危険なのは想像が妄想に変わることである。妄想に基づく判断は99%間違っていると考えなければならない。想像と妄想は全くの別物である。

物事を判断する時、最悪のケースを想定することが重要だとよく言われる。確かにケースによっては最悪のケースを想定することは必要だろう。例えば地震・津波の被害想定、鳥インフルエンザなどの感染症被害における対策などは最悪のケースを想定することが絶対である。しかし個人が取るべき道を選択するに当たっては、最悪のケースを想定することは圧倒的にデメリットが大きい。特に悪いケースを想定することによって身動きが取れなくなってしまう危険性が大である。

物事を判断する時の有用な手段として、リスクとリターンを天秤にかけるという手段がある。ほとんどの場合、リスクというものはどうしても避けられない。大事なのはリスクを上回るリターンが得られるかということだ。99のリスクを取って100のリターンを得る判断ができるか?しかし残念なことに、そのような判断を下せる人は多くない。

時には100のリスクを取って1を得るという手段に出ざるを得ないことがある。通常ならこれはほとんど暴挙と言わざるを得ない。しかし人生の中にはこのような勝負に出るべき時が必ず存在する。しかしその1は単なる1ではない。限りなく輝くダイヤモンドのような1なのである。このような勝負に出ることができるかどうか?それは人間の器というものに大きく関係してくることだろう。

とは言え、通常においてはできるだけ的確に判断を下し、メリットを最大限にすることが重要であることは言うまでもない。そのために不確定要素をできるだけ排除し、完全な知識に基づく考察により判断することが求められる。

社会的思想の観点から見た自由。

シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が解放されて、しばらく経った。安田純平氏の拘束・解放に当たって日本国民として考える事、思うことはいろいろある。

まず重要な事は、安田氏は大手メディアの所属ではなくフリーのジャーナリストだということだ。紛争地で犠牲になるジャーナリストのほとんどはフリージャーナリストだ。これは何も大手メディアの危機管理がしっかりとしているという訳ではなく、むしろ大手ジャーナリストは危険地には入らず、身の危険がある取材はフリージャーナリストが一手に引き受けているという現実からだ。言い方を変えると、大手メディアは自分の手を汚さず、安全地帯でぬくぬくとしていると言える。

そして最も重要な事は、今回のような事案が発生すると日本国内で必ず発生する「自己責任論」だ。自己責任論を叫ぶ国民の言いようは一見理があるように思えるが、その根底には非常に危険な思想が横たわっている。はっきり言ってこのような事は思想と呼ぶに値しないものであるが。

日本では皆がしないことをする人に対しては非常に風当たりが強い。このことは何もジャーナリストに対してだけではない。科学研究でも同じだ。ある程度確立された分野内で、ある程度他人が行った研究を追従する。そして人がしないことをする人に対して「意味がない」「絶対にうまくいかない」と盲目的に批判する。そしてノーベル賞を取った途端に手のひら返しだ。

もし皆がしないことを誰もしなくなったらどうなるのか?そのような世界に持続的な発展はない。このことが最も顕著に表れているのが、FAGA(Facebook、Apple、Google、Amazon)が支配する現在の社会構造だろう。このような社会構造に日本が乗り遅れたのは、何もITの重要性に気付かなかったからではない。皆のしないことをせずに他人の事を追従することしか考えない日本人的思考であると僕は考えている。これではもしITの次に来るパラダイムが訪れても日本はその主役にはなれないだろう。

少し話はずれたが、安田氏への自己責任論的批判には、誰もしないことへの批判に対する構造的問題が存在する。そして言うまでもなく、自由への放棄でもある。ある記事でこのようなことが書かれていた。「この国にはハロウィーンでバカ騒ぎする自由はあるが、真の言論の自由度はすこぶる低い。」(プレジデントオンライン・元木昌彦氏の記事)

一体この国にある自由とは何なのだろうか?確かに日本という国は世界的に見れば自由な国である。国家システム的な視点から見れば自由かもしれない。しかし問題は社会的思想から見た自由である。今回の安田氏の解放に対して政府が自己責任論を言っている訳ではない。国に自己責任論などという法律はどこにもないのに、多くの国民が自ら自己責任論を主張している。僕はそのような社会的思想は国民が自らの首を絞めつける行為だと考えている。自己責任論を叫んでいる人たちは、「自分はそんなことをしない。だから自分には関係ない」とでも思っているのかもしれない。しかし社会的思想はあらゆるところで繋がっている。今回の安田氏の行動は、我々市民の生活に密接に関係していることだと気付かなければならない。

多くの日本人が自ら自由を放棄し、自らの首を絞めつけようとしている。そのような国の50年後、100年後にどのような自由が確保できているか?はっきり言って見通しは暗いものだと言わざるを得ない。

なぜルーティン化することが必要か。

決まりきった手続きや順序の事を「ルーティン」と言う。最近よく使われる言葉だ。以前僕は「ルーティーン」と伸ばして言っていたが、英語で書くと「routine」と書き、どうやら「ルーティン」や「ルーチン」の方が近いらしい。とは言え、こんなことはどうでもいい。

ルーティンと言えば、メジャーリーグのイチロー選手や、前田健太投手のマエケン体操が有名だ。僕自身のルーティンは、朝起きるとすぐに食パンを焼きホットミルクを入れて飲むというところだろうか。それから毎日の筋トレもルーティンかもしれない。

日常にルーティンを作ることは大きなメリットがあると僕は考えている。ルーティンを作ることによって日常のリズムを作ることができる。そして毎日同じルーティンを行うことによって、自分自身の些細な変化、好不調、違和感などを捉えることができ、それに合った対応を取ることができる。好調だと感じた時は、エンジンの出力を上げて最大のパフォーマンスを出すことができる。

ルーティンには前向きなルーティンと堕落につながるルーティンがあると僕は考えている。僕自身も前向きなルーティンをどんどん作ろうと思っているが、堕落的なルーティンを作ってしまうこともある。例えばYouTube動画をつい見てしまうとかお酒を飲むとかというものだが、この様な堕落的ルーティンは自分でコントロールできるうちに抜け出さなければならない。

大きな目標があるのなら、そのために何をしなければならないかということをしっかりと認識しなければならない。そしてそのことをより効率的に実行するために、ルーティンを構築することは非常に有用な手段である。

ミクロの世界とマクロの世界。

最近、少しだけ経済学をかじっている。(勉強したというほどでもない。)よく知られているように、経済学にはミクロ経済とマクロ経済がある。ミクロ経済は個人や個々の企業の動きを基に解析する学問で、マクロ経済は国家間などの大きなレベルでの経済を解析する学問である。

経済学にミクロとマクロがあるように、あらゆる学問でもミクロ的分野とマクロ的分野がある。その最たる例が物理学であろう。物理学ではミクロの世界を扱う量子論から、宇宙的スケールを扱う一般相対性理論まである。もちろんほとんどの物理学者は専門を定めて研究を行っているが、量子論と一般相対性理論の両方の素養があることは必要不可欠である。

物事を追究するにはミクロかマクロのどちらかに特化して細分化していけばいいが、本質を掴むためにはミクロとマクロの双方から物事を俯瞰することが重要になる。これは学問だけに限らず、あらゆることに言えることだ。

しかし近年は物事を扱うスケールが巨大化し、全てを俯瞰することは現実として不可能になってきている。しかし物事を広く見渡す視点は今でも重要である。しかも、「広く浅く」ではダメだ。重要なのは「広く、そしてある程度深く」である。さらにもちろんそれだけではダメで、「かつ専門は徹底的に深く」ということを付け加えなければならない。

専門を深く追究することを軸とし、世界のことを幅広くある程度深く理解する。そのような素養を身に付けると、ミクロの世界を覗く顕微鏡とマクロの世界を見渡す望遠鏡を上手く使い分けることにより、物事の本質がより鮮明に見ることができるであろう。