ジェネラルサイエンティスト。

ジェネラリストとはどのような人のことを言うのか?いろいろな事をまんべんなくできる人のことをジェネラリストと言われる事がある。しかしそれはジェネラリストでも何でもなく、単なる普通の人でしかない。僕が定義するジェネラリストとは、あらゆることに対してスペシャリストレベルである人である。なので、ジェネラリストになるためには、まずスペシャリストになることが必用だ。

最近はあらゆる分野において細分化が進んできている。それは科学においても例外ではない。物理学者であっても分野が違えば、同じ物理学のことでも全く分からないと言うことも少なくない。そのような研究者を物理学者と呼べるだろうか?そのような人はもはや物理学者でさえない。

では、科学を志しているのならば究極的にはどこを目指すべきなのか?僕は「ジェネラルサイエンティスト」だと考えている。すなわち、科学のどの分野に対してもスペシャリストレベルであると言うことだ。細分化が進んでいる現在において、そのような事は本当に可能なのか?僕は可能だと考えている。もちろん、誰もができることではない。だからこそ挑戦すべきではないだろうか。

ジェネラルサイエンティストになるためには、全ての科学に対してスペシャリストレベルでなければならない。その中でも少なくとも一つの分野では世界でトップレベルにならなければならない。そのようなジェネラルサイエンティストは世界でも数えるほどしかいないだろう。しかし、ある分野で世界でトップを極めている科学者は、他分野に関してもスペシャリストレベルであることも少なくない。もし科学を極めたいのならば、ジェネラルサイエンティストを目指すことは最も挑戦的な取り組みに違いない。そしてそこから科学以外の分野にはみ出していくことも非常に面白いだろう。

学問的野望。

僕は人間と言うものはどの分野を志していても野望は持つべきだと思っている。そしてその野望を達成する原動力は何であっても良いと思っている。むしろ、自分の中にある欲求や夢をいかに上手く原動力にして、いかに事を成し遂げるかと言うことが重要なのである。

タイトルに「学問的野望」と書いたが、そもそも学問的野望とは何か?何も成果を出して大金を得ることが目的ではない。いや、もし大金を得ることが原動力になるのならばそれも良い。しかし学問的野望はビジネスとは違ってお金だと割り切れるものではない。そもそも、ほとんどの研究者は学問が大好きで、その面白さに魅了されて学問に打ち込んでいるのである。金銭的利益は付属品でしかない。

科学と言うものは階層的に分類されている。科学の一番基盤的なところに位置するのが物理であり、そこから化学、生物学、地学へと積み重ねられていく。すなわち還元主義的に考えると、物理学を制覇すれば全ての科学を制覇したことになる。さらに物理の中でも素粒子論は最も根っこに位置するので、素粒子論は科学全ての源泉だと言える。

しかし、物理(素粒子論)を理解すればそれで満足できるのか?以前の僕ならばそれで満足していたかもしれない。しかし今は違う。数理物理を軸にしながらも、化学や生物学・地学などの全ての階層を理解し制覇したいと思っている。さらに現実世界(我々の住んでいる宇宙)の理解だけにとどまらず、さらに強固な世界である数的宇宙(数学)も制覇すべきだと思っている。そのように全ての階層の数理と科学を制覇することこそ、究極の学問的野望だと思っている。

今、僕はいくつの問題(テーマ)に取り組んでいるのか?とふと思った。そしてそれらを紙に書き表してみると、八つもあることに気づいた。それらは数学・物理はもちろん、あるものは(理論的な)生物学、脳科学、コンピューター科学などと多岐にわたる。昔なら物理の問題だけで満足していたであろう。しかし今の僕の知への欲求は、それだけでは満足できないのだ。そしてもちろん、それらを知ることが目的ではない。解明して新しい知見を出すことが目的なのである。

僕の学問的野望はどこまで広がるのか?それはとどまることを知らない。

学問的哲学は、何一つとして真理を明かさない。

哲学は有用なのか?不要なのか?この問いに対して僕は明らかに有用だと答える。それどころか、哲学のない人生、そして哲学のない科学などは取るに足らないと僕は考えている。しかし、我々が生きて行くうえで考える哲学とは別に、大学などで行われている「学問的哲学」と言うものがある。例えば、カントやショーペンハウアーのようなドイツ哲学などだ。僕自身も、そのようなドイツ哲学を中心とする学問的哲学に取り組んでいたことがある。しかしそこでたどり着いた結論は、「学問的哲学は不毛であり、何一つとして真実を明らかにしない」と言うことである。はっきり言えば、学問的哲学とは哲学者の自己満足な遊びでしかない。

ではわれわれはどのような哲学を追求すべきなのか?それは「いかにして生きるべきか?」と言うことを追求することである。哲学とは生きることに対して求めるべきであって、単なる論理学のくだらない哲学遊びを求めても仕方がないのである。とは言え、古代のギリシャ哲学は十分に意味があった。古代ギリシャ哲学は現代科学の源泉でもあるし、宇宙の真理を真剣に追究している。それに対して近代ヨーロッパ哲学はひどいものである。それらの哲学からは何一つとして真理が浮かび上がらない。

科学とは、まず目の前の事を真実として直視することから始まる。しかし近代哲学は人間が特別なものであると言うところから始まる。人間の存在など、確かに特殊性は帯びているが、生物学的には特別でも何でもない。もし人間が特別だと言うならば、根本的に同じ生物システムを保持しているアメーバだって特別である。いや、そうであるべきである。生物とは宇宙的に見ても特別であり、生物学とは特殊科学の極限なのである。

そして数学はこの宇宙で最も確かなものなのである。そしてそれを突き詰めていくと、当たり前のものが当たり前でないことに気づく。1とか2という自然数を哲学者はどう捉えるのか?おそらくくだらない論理にもなっていない論理もどきを持ち出して論破しようとするであろう。しかし、最も厳格である数学の基礎であるツェルメロ・フランケル集合論を用いて論じれば、自然数と言うものが最も確実な存在ではあるが、最も自明ではない存在であることがわかる。そこに、数学を用いて迫る真実の最もエキサイティングな真理が存在するのである。

理論と計算。

物理学と数学は究極的な理論的学問、計算的学問だ。数学を計算抜きで考える人はいないと思うが、では数学者や物理学者が日常生活においても全て計算に基づいて行動しているかと言えば、そうではない。もちろん、全てにおいて計算と理論に基づいて行動している人も少なくないとは思うが、理論的計算的に行動することが正しいかと言えば全く別問題である。

僕は数理物理学と言う学問に取り組んでいるが、そのような究極的に理論的計算的学問に取り組んでいるからこそ、日常生活や人間関係においては逆に計算では動かないように心がけている。そして周りの人間が計算的に動くのを見て、全く的外れだと思うことも多々あり、だからこそ計算に基づいて動くことが利益を最大化するとも思えないのである。

しかし、僕自身も少しは論理的に日常を捉え、もう少し計算をしても良いのではと最近少し思うようになっている。とは言え、100%計算に基づいて行動しようとは今でも思わないし、そういうのは好きではない。日常を純粋に楽しみ、面白いことを面白いと純粋に笑い、苦し事を苦しいと感じることも必要ではないだろうか。しかしそのような苦しさから脱出するためには、少しは戦略的に物事を進めることも必要である。

世の中には、このような僕の考えに逆行している人がたくさんいる。日常生活などでは徹底的に計算で動き、逆に数学を論理的に考えることができない人たちだ。そのような人たちは間違いなく的外れな解釈を行っている。日常の本質と数学の本質が別のところにあることを理解していない。だからこそ、世間で「理論的に証明されている」と言えば何の疑いもなく信じて実行しようとする。そこには思考と言う作業が組み込まれていないのだ。数学を突き詰めている人ほど、日常の常識に立ち向かうことができる。常識を知っている人が偉いのではなく、常識が本当に正しいか判断できる人になることが重要なのではないだろうか。

肩書と実力。

日本は肩書社会だとよく言われる。だからと言って外国は完全な実力社会かと言えばそうでもないとは思うが、日本国内から見ても海外の方が圧倒的に実力社会であるように思える。

では学問の世界はどうか?学問の世界の肩書の一つに「博士」と言うものがある。実力社会のように思えるアメリカであっても、日本以上に博士と言う肩書が重要視されているようだ。ノーベル賞受賞者の中村修二氏は、若いころアメリカで修業したそうだが、博士号を持っていないがためにほとんど相手にされなかったと言っている。これはアメリカに問題があるのか?学問の世界に問題があるのか?はっきりと断定はできないが、どちらにも問題があるように思える。

肩書重視の弊害は、あらゆるところで見られる。その一番の弊害は、再チャレンジの機会が存在しないと言う事であろう。もしくは例えそのチャンスがあったとしても、既得権益者が行うよりも圧倒的に難しい状況に追われる。しかしそのような事は、どこの国どの社会であっても同じことであると思う。三倍難しければ、五倍の実績を挙げればよい。十倍の結果を出せば誰も文句は言わないだろう。それで文句を言う人は単なるバカである。

歳を取ればとるほど実績を出すのは難しくなる。そして実績を認められるのはそれ以上に難しくなる。しかし前述したように、十倍の実績を出せば誰も文句は言わない。ならば十倍の実績を挙げれば良いだけの話である。これが難しいか?可能か?それは本人次第であるが、僕は十分に可能だと考えている。どう出過ぎた釘になるか?そこを突かないと、実力主義だと言われるアメリカであっても認められるのは難しいと思う。しかし、どう認められるかと考えているようでは、出過ぎた釘にはなれない。なぜなら、出過ぎた釘とは評価をする側に回ると言うことであるからである。

借金と投資。

日本人は借金を過度に恐れ罪悪視する傾向がある。しかし借金とは使いようにもよるが、投資と言う意味合いも強くある。従って、借金を全くしないとは、自分の成長に対する投資を否定することでもある。もちろん、服やカバンに散財するようなことは決して良いとは言えないが、しかし男ならスーツ(とそれに合わせる靴)にはそれなりの投資をすべきである。なぜなら、スーツは仕事の武器にもなるし、人付き合いの武器にもなる。だから無理をしない程度にお金をかけるべきである。そしてその威力を存分に発揮し、何百倍にしてリターンを得ればよいのである。

子供が大学に行こうとするとき、「お金がないから行くな」と言う親もいるらしいが、それは誰が見ても適切でないと感じるだろう。お金がないなら借金をすべきである。学校に行かせたければ、教育ローンや奨学金と言う選択肢がある。それこそ正しい借金の仕方だと言えるであろう。おそらくそれらの借金をして大学に行った子供は、大学で猛勉強をし、将来その何百倍ものリターンを得ることであろう。

日本では子供のころから、貯金の仕方については繰り返し言及されるし、貯金が非常に良いことだと教えられる。しかし、お金の使い方に関してはほとんど教えられることはない。しかし本当に重要なのはお金の使い方の方なのである。なぜなら、ビジネスとはお金を儲けることであるが、お金を儲けるためにはお金を使わなければならない。お金を使い、それ以上のリターンを得るのがビジネスと言うものである。学問をするのにも、書籍にお金をつぎ込むことが必用だ。しかもそれに本気で取り組むとなると結構な額になるものだ。しかしそれは金銭的にも人間的にも何百倍になって帰ってくるはずだ。お金の有効な使い方をする者が勝者であり、無思考にお金を貯める者は敗者であると言える。もちろん、何かの準備のために貯めると言うことはあるが、その場合には結果的にお金を有効に使うと言うことに結び付く。

お金は貯めているだけでは何の効果も発揮しない。せいぜいお金を貯めていると言う、ちょっとした満足感とちょっとした安心感だけである。もちろん、散財したり意味のないものにつぎ込むのは論外であるが、お金を使ったり、時には借金することは決して悪いことではないのである。ビジネスの成功者は例外なく借金の仕方が上手い。そしてビジネス以外でも、人生を上手く運べる人は借金を有効に使う。もし自分に明確なビジョンがあるのなら、それを実現するために思い切って借金という投資をするのも非常に意味のある大きな手であるはずだ。

新庄剛志の挑戦。

“元”プロ野球選手の新庄剛志さんが、最近再びプロ野球に挑戦すると宣言して話題になっている。それに対する反応はまちまちであり、バカにする人も多いが、僕はこの究極に新庄らしい宣言に対して非常に好感を持っている。元監督の野村克也氏は、「究極のアホ」と言い放っているが、これも元教え子の新庄さんに対する一つの愛着の表れではないかと僕は思っている。もっとも、本気で新庄さんがプロに戻って来ると思っている人はほとんどいないようだが。(僕を除いて。)

そもそも、歳を取ると衰えるから無理だと考えることには何の根拠があるのか?いや、はっきりと根拠がある。科学的医学的に考えれば、歳を取ってプロ野球選手になることは不可能だ。しかし、新庄さんは“まだ”47歳である。まだまだ十分行ける!新庄なら!歳のせいにして不可能だと言うのは、ある意味単なる言い逃れでしかない。スポーツも学問も、生涯プロを目指すべきだ!

新庄剛志の歴史は、不可能を可能にしてきた歴史だ。阪神タイガース時代、スター選手として活躍したが、突出していたと言う訳ではない。なので、大リーグ挑戦を宣言したとき、誰もが失敗すると言い放っていた。しかしいざアメリカに行くと、数字的にも日本と変わらない成績を残すことに成功している。そして何よりも、日本人初の大リーグでの4番打者になっている。松井秀喜よりも前に4番打者になっているのである。まさしく「奇跡を呼ぶ選手、クレヨンしんちゃん」なのである。

僕だって、他の選手がそんなことを言うのなら、絶対に無理だと思ってしまうだろう。(イチローは別格であるが。)しかし、新庄なら本当にやってしまうのではないかと心のどこかで思ってしまう。普通なら0%だ。しかし新庄なら3%くらいあるのではないか。僕はその3%に期待しているし、ワクワクしている。新庄はおバカキャラだけど、バカではない。新庄こそ究極の挑戦者であり、究極のエンターテイナーではないだろうか?

無限小の地球。

世界は広いとよく言われる。それは本当に正しいのか?科学技術の発達した現代では、世界を見ることは身の回りの物を見るくらい容易であるし、飛行機で回っても一日もかからない。さらに宇宙全体から見れば、地球上の世界などはっきり言って無限小だと言ってよい。なので広い視野を手に入れるためには、地球上の知見だけで終わらせるのではなく宇宙を理解しなければならない。

では宇宙を理解するためにはどうすればよいか?それは数学と物理を理解すればよいのである。数理は宇宙のかなたまで視野を広げさせてくれる。では、初めて宇宙を見た(理解した)のは誰か?これは疑いようもなくニュートンだと言える。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て万有引力を発見したと言われている。これは何を意味するのか?じつはこのことの真意を理解している人は少ない。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て、地上の重力と宇宙の星の運動を支配している力が同一のものだと見抜いたのである。すなわち、ニュートンは地上の世界と宇宙の世界を統一した初めての人物なのである。それに比べると、現代の身の回りの狭い科学技術にとらわれている人間がどれだけ小さいかが理解できる。

科学(サイエンス)は万能であっても、科学技術(テクノロジー)は万能ではない。科学は奥に潜む真理を明らかにするが、科学技術は表面的なものしか明らかにしない。すなわち世界(宇宙)の本質は科学にあるのに、ほとんどの人間の眼中には科学技術しか入っておらず、表面的な事しか見えていない。例を挙げると、科学(物理学)によって宇宙の果てまでもが理解できるが、科学技術(テクノロジー)はせいぜいロケットで月や火星に行くくらいが限界だ。世の中を本気で理解しようと思えば、宇宙の果てまでもを理解しようと言うくらいでなければならない。

科学技術の価値は誰でも理解できる。なぜなら科学技術と言うものは非常に即物的だからだ。しかし科学の本当の価値を理解している人は少ない。それは科学と言うものが非常に本質的であり、抽象的であるからだ。しかし現代の教育は技術の方に傾き過ぎている。その結果、人間の視野を非常に狭いものにしている。プログラミング教育もいいが、何か本質的なところをないがしろにされているように思えてならない。

何が確かで、何が不確かか?

世の中の常識は時代ごとに変わるし、学問の内容も変遷していく。しかし数学において、昔正しかったことがその後になって間違っていたなんてことはほとんど聞かない。もちろん高度にはなって行くが、新しい数学と言うものは、過去の結果を基に積み重ねられて行くものだ。

しかし生物学や医学となると話は全く別だ。医学において、過去の常識が実は間違っていたなどと言うことは日常茶飯事だ。生物学や医学の進歩とは、ある意味過去の結果を否定することによって進んで行くと言える。もちろん全てが間違っていると言う訳ではないが、大部分が間違っていると言えるようである。

そのような事を考えると、「何が確かで、何が不確かか?」と言うことを明確にすることは、多くのことに対して難しく、時には不可能であると言える。確実に言えるのは、今確かだと言われていることは今の“常識”であって、それらの常識が正しいと言う保証は全くないのである。

人生においてもっとも価値があるのは、過去の常識を覆していくことだ。常識を容認することは誰でもできる。なので、常識を知っている人間などは何の価値もないのだ。ただし、非常識が良いと言っているのではない。次の時代の常識を作ることに価値があるのだ。医学や生物学などの科学でさえ間違いが山ほどあるのだから、社会や人間の行動や考えが間違っていることなど膨大にあると言える。なので、今の常識が正しいか?と言うことにとらわれるのではなく、次の時代の常識を開拓していくことが必要なのではないだろうか。

魔教育。

魔教育とは、特に小学校で行われている子供の将来をぶち壊しにする教育だ。そしてその原因は、小学校教師の極度なレベルの低さにある。

魔教育は、特に小学校の算数の授業で実行される。例えば
・例1、掛け算の交換法則を理解していない。
・例2、イコールの付け方に意味のない規則を教える。
・例3、筆算の棒を定規で書かせる。
・例4、「3=3.0」を理解していない。
などである。

例1については、面積の公式を「縦×横」は正解だが、「横×縦」は間違いだと言う嘘を教えることだ。
例2については、イコールを横に次々と並べてはいけないと嘘を教えることだ。
例3については、そのままである。
例4については、そもそも数字(算数以前の問題として)を理解していない。
もう、これらがなぜダメなのかという低レベルな事はここでは述べない。しかし、実際の小学校ではこのような魔教育が行われているようである。

僕は大学時代、教育学部の友達が多かったので、このような話をよく聞く。そしてそれらを指摘された教師は恐るべきことに、ネットで検索して調べるようである。しかもWikipediaで。そしてそのような小学教師であるほど、小学校の授業で算数が一番簡単だと言っているようなのである。

このような魔教育の根源は、「生徒のための教育」と言う意識が軽薄で、「教師(自分)のための作業」をこなしていると言う意識があることによるものではないかと思われる。魔教育は間違いなく子供の将来をつぶす。教師が人間として低レベルなのはどうでもよいが、子供にそのような低レベルな人間の作業に引きずり込むことは害悪でしかない。しかしこれらのことがあまり世の中の問題にならないのは、まさかそこまで低レベルな教師がいるとはだれもが想像していないからである。しかし実際は相当数の超低レベルな教師がいるようなのである。

まず、敵を知ること。

物事に取り組む時、味方を集めるだけでなく敵を知ることも大きな力になる。敵を知ることによって問題点がさらけ出され、攻めて行くポイントが明白になる。それは学問においても言えることだ。

例えば数学において、佐藤超関数で攻めて行きたければ、シュワルツの超関数を知ることは重要だ。別にシュワルツの超関数が敵なわけでも何でもないが、その周囲を知ることによって本丸が見えてくる。そして本丸が見えてくれば、それを攻略するためにどのような武器(理論)が必用かと言うことを見定め、武器を集めればよい。ただし武器を集めるにはやはりお金が必用だ。何事にも本気で取り組もうとすると、どうしてもある程度のお金は必要になる。お金をかけずに取り組むと言うことは、ある意味まだ遊びだと言えるのかもしれない。学問においても、専門書を買うのにはある程度のお金がかかる。

そしてお金と同時に時間も必要だ。取り組む対象にそれだけの時間をつぎ込む覚悟はあるのか?本気で取り組むほど、初めはあらゆることを犠牲にする必要がある。お金だって初めはだいたい赤字になる。それが人生投資と言うものだ。しかし明るい将来が見えているこそ、今のあらゆる犠牲に耐えられる。そしてそれを成し遂げた後に気分を解放させればよいのである。

とは言え、現在の僕自身、そのような事が完全に実行できているかと言えばそうではない。完全に実行できていれば、今頃ある程度の結果を出せているはずだ。しかし言い方を変えれば、時間の問題だとも言える。さあ、今苦しんで、明日を思いっきり楽しもう!

ビジョンを持って失敗する。

人間は大きく二つに分けられる。失敗する人と失敗しない人だ。そこで多くの人は失敗しない人になろうと思うかもしれない。しかし失敗しない人と成功する人とは同義ではない。同義ではないどころか全く正反対である。

失敗しないとはどういうことか?それはほとんどの場合挑戦しない人と言うことだ。そして失敗する人こそが成功する人だと言える。しかしそのためには継続性が重要になる。「継続は力なり」とはよく言うが、失敗してもなおも挑戦し続け、そしてさらに失敗を繰り返し続ける。そのことによって大きな成功はもたらせられる。僕はそう考えて全ての物事に取り組んでいる。

そして大事なのが、「ビジョンを持って失敗する」ことである。ただやみくもに「数打てば当たる」と思っていても、実際には一つも当たらない。なぜならそこにビジョンがないからだ。ビジョンを持たずに矢を放っても、本質的なところには一つも当たらない。もちろん実際の弓矢は百本放てば一本くらいあたる確率はある。しかしビジョンなき矢放ちは間違いなく一本も当たらない。「ビジョン+挑戦」が成功へと導くのだと僕は強く考えている。

では、これまで述べてきたことは本当に正しいのか?このような事を述べたからには僕がそれを証明しなければならない。そしてそれを証明する準備は整いつつある。後は細部を埋めて行くだけだ。その結果は近い将来出るはずである。

強さと弱さ。

誰もが強さと弱さの二面性を持っている。もちろん圧倒的に強い人もいれば、圧倒的に弱い人もいる。多くの人は強い人間になりたいとは思っているだろうが、しかし弱さが存在することによって気づくことも多々あるし、大事なのは強さと弱さの相乗効果なのである。

強さには大きく二種類ある。一つは肉体的な強さ、もう一つは精神的な強さである。しかしこの二種類の強さは独立してあるものではなく、肉体的強さが精神的強さをもたらし、そして精神的強さがさらに強い肉体をもたらす。例えば、プロスポーツ選手にとって鋼のような肉体は不可欠であるが、そのような強靭な肉体を手に入れるためには強い精神力によって鍛えなければならない。そして学問とはある意味精神活動の極限だと言えるが、そのような精神活動を推し進めるためには健全な肉体は非常に頼りになるものである。数学とは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とはよく言ったものである。

僕は最近、かなり強くなっていると自分では感じている。しかしそれと同時に弱い側面もかなり大きくなっている。ある意味、人間性が強烈になって来ていると言える。しかしそれは自分の望むところであり、今僕はかなり自分らしく生きていると感じている。しかし好不調の波はある。そこが僕の一番の課題ではあるが、それを克服するのも時間の問題だと思っている。

自分はどこまで強くなれるのか?そしてそれは現在の弱さを抱えたままでも行けるのか?これは自分自身における挑戦である。しかし他人から見た目と言うものも気にしてしまう。それははっきり言って、現在の自分の弱さだ。自分自身の挑戦は、自分の内部の思考によって推し進めるべきだ。そしてそれ以外の面では他人の目を気にするのも良いと僕は思っている。いや、気にすべきところは気にしなければならない。服装や身だしなみを、そんなものは関係ないと気にしないのは単なる独善である。自分自身の挑戦に打ち込みながらも、意外とそんなところも気にする僕である。

未来的イメージと個性。

最近、車の雑誌を読んでいると、近未来の車として電気自動車や自動運転車のコンセプトモデルが出されているのを見ることが多い。ガソリンの自動車が廃れるのか残るのかは世界の環境政策にかかっていると思うが、ただ電動化、自動化の路線を突き進むことは疑いようのない事実のようだ。

そこで近未来のコンセプトモデルを見ると、もちろんそれぞれデザインは違うものの、何だか方向性が全て同じように感じてならないのだ。時代を先取りした前衛的モデルと言うコンセプトは同じでも仕方がないが、個性を出そうとしているのがそれらの全ての個性が同じように見えるのだ。これは実は個性を出しているようであって個性ではないと言える。それらの個性の源泉が全て画一的なのである。このような事は、あらゆる分野に対して言えるのではないだろうか?

「最先端=個性」では決してない。むしろ最先端は流行であると言うことが非常に多い。そして最先端にこだわるあまり、ただ単に流行に乗っているだけと言うことが少なくないのだ。このような事は学問にも言えることである。学問においても流行があり、一部の(多くの?)研究者たちはいかにして流行に乗り遅れないかと言うことばかり考えているようである。最先端は乗るものでなく作るものなのである。最先端に乗っかっている人に個性が出るはずがない。

車の話に戻るが、僕は最近のマツダのデザインが大好きだ。現在マツダの車に乗っているわけではないが、次車を買うときはマツダの車を買いたいと思っている。現在のマツダの車はデザインが秀逸であり個性的である。しかし前衛的な印象は受けない。車の質的にも非常に良いらしいが、僕は乗っていないので何とも言えない。しかし現在のマツダのスタイルは、あらゆる分野の人間に対して個性の一つの在り方を示しているのかもしれない。前衛性にこだわるあまり全ての人が同じ方向へ進み、結果的に個性を殺している。人々はもう少し、いや深く個性の在り方出し方を考えるべきではないだろうか?

良い問題を設定することの大切さ。

もし学生ならば、教師から出された問題を解くことに全力を尽くすかもしれない。確かに問題を解くことは重要である。社会においても、様々な問題が山積し、それらの問題を一つ一つ解決することが求められている。しかしそれらの問題が存在すると言うことは、誰かがそれらの問題に気付いたと言うことである。問題が設定されなければ解決も何にもない。実は問題を設定すると言うことは問題を解くこと以上に重要な事なのである。

例えば数学を例に挙げると、今から百年ほど前に、ポアンカレ予想と言う問題が設定された。設定者は名の通りポアンカレと言う数学者である。ポアンカレ予想は約百年後の21世紀初め、ロシアのペレルマン博士によって解決された。ペレルマン博士の業績はもちろん偉大なものであるが、現在でも「ペレルマンの定理」と言われることは少なく「ポアンカレ予想」と呼ばれている。これはやはり問題を設定したポアンカレの業績が大きく評価されていることの表れだと考えられる。

研究とはまず問題を設定するところから始まる。問題を与えられて、「はい、解きなさい」と言われるのは学生までだ。もちろん世の中には未解決問題がたくさんあり、それらの問題に取り組むのも一つの手だ。しかし大問題を解く過程では、様々な問題を見つけることが要求される。極論を言えば、研究とは問題を見つける作業だと言える。

良い問題を見つけるためには、ある程度センスがいる。与えられた難しい問題を解く才能と、良い問題を見つける才能は、重なるところはあるが別物だと言える。だから難しい入試問題が解ける人が必ず優秀な研究者になれるとは限らない。もちろん、研究者レベルでなくても身の回りには様々な問題が横たわっている。良い問題を見つけるセンスを身に付けるためには、そのような身の回りの小さな問題を発見するところから始まるのかもしれない。

効率化を目指すべきか?

僕はかなり効率の悪い人間だ。とにかく時間の使い方が下手だと自分では思っている。そこで何とかして時間を上手く使い、効率化を進めて行かなければならないと強く感じている。

物理や数学と言う学問は思考の学問だ。どれだけ時間を使い深く思考するかということにかかっている。だからそこから思考の時間を省くことは自殺行為である。思考には湯水のごとく時間をつぎ込まなければならない。しかし人間の持っている時間は有限である。「この問題に200年かけて取り組もう」と思う人はいない。なので普段の時間の使い方から筋トレの時間まで、できうる限り時間を効率化していかなければならない。

しかし今僕の置かれている環境では全てを効率化することは難しい。もちろん時間の効率化を進める余地は大きくある。だから効率化できるところは徹底的に効率化を図らなければならない。そして現在どうしても効率化できない所は、自分の道を切り開いて効率化できる環境を作らなければならない。それしか方法はない。

僕は超ロングスリーパーであるので、睡眠時間を削ることは難しい。それでも過度に睡眠をとる必要はない。そこにも効率化をする余地はある。時間の効率化は、自分の意識の持ちようにかかっている。油断するとすぐに時間は過ぎて行く。今年もあと少しであるが、来年から取り組もうと言うことではなく、今すぐに始めなければならない習慣であると強く思っている。今できなければ永遠にできない。あとは自分の意志だけである。

もう安倍政権を支持することはできない。

僕はこれまで何度も述べてきたように、自民党・石破茂氏を一貫して支持してきた。そして現政権は自民党安倍政権であるが、これまでいろいろと不満を抱えつつも安倍政権を支持してきた。しかし今、もう安倍政権を支持することに限界を感じ、安倍政権を支持することはできないと判断した。

ではなぜ安倍政権を支持することができなくなったのか?それは今までの様々な問題の蓄積からであるが、最後のとどめとなったのが現在問題になっている「桜を見る会」問題だ。しかし桜を見る会自体は僕はそんなに深刻には考えてはいなかった。地元の有権者を招くようなことは当たり前の話としてあると想像できるし、参加者の会費に関しても確かに白ではない。しかし僕はそんなことだけで安倍政権を不支持にしたりはしない。問題はその後である。安倍首相、そして安倍政権に関わる周辺の政治家と官僚たちの事後対応が圧倒的に問題だ。完全なる隠蔽主義と都合の良いいい加減な解釈。そして周りの政治家や官僚は安倍首相に対してノーと言えず、完全なるイエスマンになっている。はっきり言って、このような状況は国民にとって害悪でしかない。国民の自由と安全までが危機にさらされていると言ってよい。

これまで安倍首相は様々な成果を挙げてきた。特に外交に関しては圧倒的な力を発揮し、それに長期政権のメリットも加わり、日本の外交・防衛に大きな貢献をしてきたと言える。現在日韓関係がもつれ、韓国にとって安倍首相は大きな脅威であろう。しかし今の状況は日本国民にとっても安倍首相は脅威であるように思えてならない。日本国民の様々な自由が奪われようとしている。中国ほどではないが、国のためとなれば国民の自由も束縛されるのが当たり前と言う風潮になりつつある。数理物理研究者としては、学問の自由が大きく侵されようとしていることが許せない。もうあらゆることが、首相多選の害悪にさらされている。やはり首相任期2期6年と言う制限は大きな役割を果たしていたと言える。3期9年は独裁の域に入りつつある。

僕個人の希望としては、次の政権に石破氏が就いてほしいと強く願っている。しかしそうなったとしても、3期9年は良いとは思えない。やはり首相任期は2期6年に戻すべきである。現安倍政権があまりに強くなりすぎて、その強さだけが目立ってしまっている。そしてデメリットがその大きな強さによってもみ消されている。今自民党内で安倍首相にノーを言えるのは石破氏しかいない。現在、石破氏の立場は非常に微妙なものになっているが、石破氏が最後の砦になってせめてもの政権チェック機能をはたしてほしいと強く願う。

成功することだけが目的じゃない。

物事に取り組む時、多くの人は、いや、全ての人は成功することが目的で、成功するために努力しているのかもしれない。それはいたって当然のことであり、成功が目的じゃないと言うのなら何が目的なのか?と皆突っ込むであろう。僕だって例外ではない。成功することは大きな目的であり、成功するために努力をしようと日々精進している。

しかし、成功は大きな目標であっても、唯一の目標ではないと僕は思っている。人間の意志は単純には割り切れない。人間とは地球上で最も複雑な生物であり、複雑極まりない脳を持っている。そしてそのような複雑極まりない脳は、人間の思考・意志に多様性をもたらしている。そして人間の価値感も非常に多様である。ある人はお金こそが全てだと言うかもしれない。もちろん、お金に価値を置くことは悪いことではない。問題はお金“だけ” にしか価値を見出せないことである。お金の価値はほぼ全ての人間に理解できる。千円より一万円の方が価値があることは、数字の大小関係が分かれば瞬時に判断できる。すなわち小学一年レベルの算数ができれば理解できることなのである。大事なのは多様な価値観を持つ事、すなわち複数の物差しを持つ事、そして時には物差しでは測れない物事の価値判断をすることが大事なのである。

人はなぜ成功しようとするのか?それは人間社会で認められるためであったり、お金を得るためだったりする訳である。しかしそれは、他人からの承認欲求と言う意味合いが強い。もちろんそれはそれでいいのである。しかし、自己の中で意志を高め、物事を追究していくと言う欲求もあってよい。他人から遮断された領域で、自分をどこまで高めることができるか?それは何かに成功すると言うことと強く結びついているが、成功そのものが目的ではないように思える。すなわち、成功することは自己を高めるための“手段”でしかないのだ。すなわち、成功と言う目的のさらに高い所に位置する。僕の場合、そのような自己を高めるための領域が、数学や理論物理(数理物理)なのである。

人間の生き方考え方は、大きく二種類に分かれるのではないだろうか。即物的な生き方と徹底的に思考して生きる生き方に。僕は物事を徹底的に考えて生きて行きたいと思っている。その極致が数学と物理にあると考えている。とは言え、そんな難しいことを言わなくても、単純に面白いからやっているだけとも言えるのだが。人間の眼には三次元の空間しか見えない。それに時間一次元を加えた四次元時空しか感じることしかできない。そこまでなら非常に即物的である。しかし数学者は、5次元や6次元、さらには無限次元まで自由に操ってしまう。そこに人間の本質があると僕は考えている。4次元までしか見えない人と、5次元以上の次元を操れる人。そこに徹底的に思考を行えるという人間の人間らしさが表れている。

最後に。無限の世界、無限次元は非常に面白いぞ!無限に興味を持ったら数学をやればいい。

集団の力、個の力。

日本人は何かと「力を合わせて」と言う言葉が好きだ。皆で力を合わせることが美徳のようにも捉えられている。確かに力を合わせて何かに取り組むのはそれはそれで良い。しかしその反面、一人で何かに取り組んでいる人に対して冷たい目線を感じないこともない。数学や理論物理のような理論的学問は、基本的には個人プレーだと言ってよい。もちろん共同研究によってグループで取り組むこともある。しかし数学や理論物理のこれまでの重要な結果、ブレークスルーとなるような理論はほとんど個人で成し遂げられているように感じる。

日本におけるグループ主義に偏重した風土は何をもたらすのか?それは協調性によってグループでしかできないことを成し遂げることを可能にする。例えば、生物学などの実験科学ではチームプレーが必須である。しかし人数が集まれば何でも良い結果が出せるかと言うとそうではない。むしろ人数が集まることによって質が低下することもよくある。対象によっては、個の圧倒的な力が必要な事もある。そのような事に対しては、協調性を押し付けることはむしろ害悪でしかない。

協調性がないと言うことは、日本では全てにおいてネガティブに捉えられるが、僕はむしろ協調性を無視することも物事によっては重要であると考えている。協調性を求めると言うことは、個の自由を束縛すると言うことである。しかし数学や理論物理においては、研究者の個の自由は圧倒的に重要である。個の自由(それはわがままと言われることも多いが)は思考の自由度をもたらす。思考の自由無くして創造的な結果を出すことはできない。

協調性は時には横並び主義をもたらす。これは言い換えると、「出る杭を打つ」と言い換えることもできる。並んでいる人には優しいが、飛び抜けようとする人の足を引っ張るという側面もある。そのような日本の環境の中で生き抜こうと思えば、目立たぬように並んで過ごすか、圧倒的に出る杭にならなければならない。圧倒的に出てしまえば、もう打つことも不可能である。圧倒的な存在、すなわち野球で言うとイチローのような、あるいは研究者で言うと山中伸弥教授のような存在にならなければならない。どれだけの人にそのような覚悟があるだろうか?そこを目指している人にとっては、「良くできる」と言うレベルは死と同じである。イチローや山中伸弥教授をテレビや本で見ることはあるが、そのようなレベルの人間を僕はこの目で見たことがない。それは僕の人脈のなさから来るものかもしれないが、見たことがなければ自分がそのような存在になればいいと考えられる身軽さも必用だと僕は感じている。

一般科学と特殊科学。

科学にそのような分類があるのかどうかは分からないが、僕は科学を一般科学と特殊科学に分類している。一般科学とは物理学のことで、そこから化学→地学→生物学の順に特殊性が増す。すなわち生物学は特殊科学の極致と言えるわけで、生物学とはその特殊性を解明する学問だと言える。それに対して物理学はその一般性を解明する学問だと言える。

では、生物学の特殊性は何を意味するのか?それは(もしかしたら)生物学が宇宙の中でも地球上でしか成り立たたないサイエンスかもしれないということである。つまり知的生物(宇宙人)は、宇宙の中でも地球上(つまり地球人)しかいない可能性があると言うことである。生物学が地球上を対象とした学問であるのに対して、物理学は宇宙のどこでも成り立つ普遍性がある。

現在、多くの科学者が地球外知的生物、つまり宇宙人を真剣に探索している。それはそれで良いが、そのような知的生物が誕生する条件として、地球と同じ気温であり、地球のように水が存在することが条件であると多くの科学者が述べている。しかし僕は、このような条件に固執するのはあまりにも視野が狭すぎるのではと常々思っている。地球外知的生物が宇宙のどこにでも存在するという普遍性を前提にしている割には、地球と同じような環境でないと存在しないと言う特殊性を前提にしている。僕は、知的生物ではない、そもそも生物ではない全く違う形態のものが存在するのではと考えている。地球に存在する生物はそのような様々ある形態の一形態に過ぎないと言う訳である。地球上の生物は極めて特殊である。特殊であるからには、違う形の特殊性もあっていいのではないだろうか。もちろん、原始生物レベルの形態で一致することはあり得るが、高等生物レベルで一致することはほぼあり得ないのではないか。

話は変わるが、仮に知的生物らしきものがいるとしてその“知的”と言う意味をどう定義するか?それは数学と物理学を理解していることだとすべきである。その理由は、数学と物理学が宇宙のどこでも成り立つ科学(一般性のある知的学問)であるからである。知的生物がいるとしたら、何万何十万という星に存在するはずである。それか全くいないかのどちらかである。宇宙人がいないという考えをする人は視野が狭いと思われているが、もしかしたら宇宙人がいると考える科学者の方が圧倒的に視野が狭いのかもしれない。そもそも科学者が宇宙人がいると言う根拠の方が全く軽薄なものと思えてならない。少なくとも、地球上の生物とは全く形態の違うものが存在することを想定する必要があるのではないだろうか。

人間の感覚って、意外と当てにならない。

普段の行動を論理的に考えるか、感覚的に捉えるか、人によってその配分は様々であると思うが、普段の生活上のことや人間付き合いをあまりにも理詰めで考えると逆に上手くいかないこともある。問題はそこに心がこもっているか、と言うことである。感覚的に捉えつつも要所要所で論理的に判断するのが良いのではないかと僕は考えている。

しかしそれが数学のこととなると話は別だ。数学は100%論理的でなければならない。もちろん、理論の概要や方向性を感覚的に捉えることは不可欠であるが、それを基に理論を構築するときにはそれが100%論理的であることが求められる。ではなぜ数学においては100%の論理が必用なのか?

もしかしたら10%くらい感覚で記述しても良いのではと思うかもしれない。しかし数学においてはそうは言えないのである。例えば、99%論理で構築しているから1%くらいは感覚で記述しても良いとするとどうなるのか?数学はその1%から全てが崩壊するのである。あるいは、その感覚で記述した1%が実は全く見当違いであることもよくある。感覚的に当たり前であるように思えることが実は当たり前ではなく、そこに想像もしないような真実・真理が潜んでいることがよくあるのである。だから数学者は時には重箱の隅を突くようなことにこだわることがよくある。それは重箱の隅に大きな真理が潜んでいる可能性があるからである。そして理論の流れに論理でないところがあれば、それはまだ数学としては完成していないことになる。

数学を突き詰めていくと、人間の感覚と言うものが全く当てにならないと感じることがよくある。もちろん数学においても“数学的”感覚や意志を基に進めることはよくある。しかしそこから導き出される結果は100%論理的でなければならない。世の中には論理に真実や真理が潜んでいることがよくあるのである。そして数学においては、そのような論理こそが本質なのである。

悪い人間が犯罪を犯すのか?

京アニの放火犯罪の容疑者が、容態の改善によって医療施設を転院した。その際、容疑者はこれまでお世話になった医療関係者に対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の意を示したと言う。僕はこの容疑者のこの言葉に関していろいろと考えるところがあった。

容疑者の放火に関してはれっきとした殺人であり許されることはないが、今回の事件はただ単に「極悪な人間が殺人を犯した」と単純に割り切れるものでもないように思えてならない。そのように考えるきっかけとなったのが、前記の容疑者の言葉である。

生まれながらに悪い人間、そして良い人間と言うものがあるのか?もちろん人間にはそれぞれ個性があり、性格や考え方などが生まれながらによってある程度もたらされるところはあると思う。しかしそれと同時に、育ってきた環境によって方向づけられるところもかなりある。もしかしたら、今回の容疑者も“普通に人並みに”悪い人間だったのかもしれない。なので育ってきた環境によっては、普通に何も犯罪を犯さずに暮らしていた可能性も高い。しかし彼の言葉から、これまで人から優しくされることがなかったのではないかと想像することができる。もしかしたら、これまで彼に優しく寄り添う人間がいたら、彼は感情をポジティブな方向へ向け、人に優しい人間になっていたのかもしれない。そう考えると、彼に対して一方的に極悪な人間だと決めつけることに少しの抵抗を感じないわけではない。

環境と言うものは、自分ではどうしようもないと言う側面がある。今回の事件に対する責任は彼だけではなく、これまで彼の環境を作ってきた親、そして学校の教師、そして彼に関わってきた全ての人々、そして日本の社会全体にあるのかもしれない。だから今回の事件に対して、自分は関係ないと他人ごとにはできない。おそらく彼に対しては、今後極刑が課せられることは免れないと考えられるが、その極刑は同時にこれまで彼の環境を作ってきた日本社会が課せられた刑だとも捉えられる。彼の起こした犯罪を教訓として、社会と人間の在り方を再考する必要があるのではないだろうか。

研究者とビジネス。

研究者とは、はたして儲かる職業なのか?普段目にする研究者のお金に関するニュースと言えば、ノーベル賞の賞金(約一億円)であろう。そして最近では、研究結果を応用して、それを事業化するというニュースもよく聞く。確かにそのような事に成功すればかなりの儲けになるだろうし、ビジネスにもなる。それだけを見ると、一見儲かる職業のようにも思える。しかし、ノーベル賞を受賞できるのは年に数人であるし、研究結果のビジネス化に成功している例と言うのもそんなに多くはないようにも思える。

もし本気で大金を稼ごうと思えば、絶対に研究者になってはならない。僕の個人的な見解としては、研究者はお金儲けの手段としては最も割の合わない職業だ。平均で言っても低いと思うし、トップに上り詰めてもビジネスの勝者には大きく及ばない。はっきり言って、研究者になって大金を稼ごうと思う人はバカである。

しかしそのような金銭的に割に合わない立場であっても、研究者になってやろうと強い意志を持っている人はそれなりにいる。もちろん研究者になってお金を儲けようと思うことは悪いことではないが、それだけではとてもじゃないけど研究者はやって行けない。ほとんどの研究者は、研究自体に魅力を感じているし、研究が人生最大の生きがいだと思っている人も少なくないだろう。僕もそんなバカな人間のうちの一人である。

しかし、研究で沢山稼ぐことは不可能な事ではない。実際少ない人数でありながらも、大きく稼いでいる人はいる。ならばその少数の人間のうちの一人になればよいのだ。とは言え、やはり研究の一番の魅力はその研究内容にある。研究が面白いからやって行ける。そう考えると研究者とは天国にいるような(そして地獄にいるような)人間であると僕は思っている。

カフェインレスコーヒー。

最近、コーヒーを飲むと頭の回転が鈍ったりして調子を崩すことが多かったので、家で飲んでいるインスタントコーヒーをカフェインレスコーヒーに変えた。カフェインレスコーヒーに変えてからいろいろとかなり好調で、カフェインレスの力は僕に関してはいかんなく発揮されているようだ。

しかし、ネガティブな面も二つある。それは価格とカフェインがないことだ。カフェインレスなのでカフェインがないことは当たり前だが、やはりカフェインを摂取してシャキっと頭を冴えわたりたいときには普通のカフェイン入りのコーヒーを飲みたいものだ。だから今でも一日一杯くらいは普通のコーヒーを飲んでいる。価格に関しては、普通に高い!高すぎる!普通のコーヒーの三倍くらいするのだ。なので財布には非常に痛いが、それで調子を維持できるのなら逆に安いと考えられないこともない。

調子の面以外で良い面と言えば、寝る前でも思う存分飲めると言うことだ。寝る前に一杯、ということもできる。味の面では、僕が飲んでいるネスカフェのカフェインレスインスタントコーヒーは意外とおいしい。はっきり言って味にはあまり期待していなかったが、これは想定外のうれしさだ。これからはカフェインレスコーヒーをたしなみながら、全ての物事を前に進めて行きたいと思っている。

世界旅行!

皆様は世界旅行に興味はおありでしょうか?世界旅行とはつまり、地球上をくまなく周る海外旅行と言える。僕はそのような旅行にほとんど興味がない。国内であろうが海外であろうが、これまで旅行をしたいとはほとんど思ったことがない。(しかしこれからは、そのような旅行も積極的にしようと思っている。)

しかし今僕は、ある世界旅行に躍起になっている。それは科学の世界の旅行だ。これまで僕は、数学と物理の世界を旅行することに打ち込んでいた。しかしそれはある意味‘‘国内旅行’’だと言える。世界旅行をするためには、化学、生物学、地学などのあらゆる分野を周らなければならない。科学の世界は美しく、そして豊富で面白い。数式を介して見る世界は非常に明確だ。海外旅行に行くお金があれば、そのお金で専門書の一冊でも買い、それに取り組む方が圧倒的に面白い。

僕は軸足を数学と物理に置いている。そのことは科学の世界の旅行をするにあたって非常に幸運だった。なぜなら、物理と数学を軸足にして、化学や生物学などに遠征をすることは十分可能だからだ。しかしその逆は基本的には難しい。そして数学に打ち込むことは、さらなる幸運をもたらす。それは、この自然(宇宙)だけでなく、数的宇宙までも理解することができるからだ。数的宇宙とは、ギリシャ哲学で言うところのイデアにあたるであろうか。すなわち、目で現実世界を見て、科学で自然(宇宙)を見て、数式で数的世界を見るのである。

僕は専門外の分野に取り組む時も、解説書ではなくできるだけ専門書を読むことにしている。確かに専門外の専門書を読むことは最初は骨が折れるが、慣れればむしろ数学や物理より簡単である。やはり一般解説だけで真理を理解するには限界がある。百冊の解説書を読むより、一冊の専門書を読む方がはるかに意義があるのである。まずは座右の専門書を定めるのが良い。専門書と格闘すれば、さらに奥に潜む真理が見えてくるに違いない。

人生50年!

現代では、人生100年とも言われるようになった。もし人生100年生きるとすると、僕はまだその半分も生きていないことになる。社会では、「人生100年に備えて」と言う合言葉的な事も言われている。もちろん、その100年間を有意義に発展的に生きて行ければ最高であろう。そこでもし僕がこれから人生100年に備えて今から準備するとどうなるのか?僕はどうしても守りに入ってしまうのではないかと思えてならない。だから僕は人生50年と意識して生きるようにしている。もしかしたら60年、70年生きるかもしれない。もしそうなればそれはそれで良い。しかし人生50年と言うことを肝に銘じて、その残り少ない時間に全力を挙げるべきではないかと僕は強く思っている。

僕自身、人生50年だと肝に銘じることによって得られるメリットは非常に大きい。これからの人生がまだまだ長いと思ってしまうと、どうしてもだらだらと時間を先延ばししてしまう。そして生物学的に生きることに気をとらわれ過ぎて、全てが守りに入り、時には保身につながってしまうのではないかと思うのである。もし人生があと数年ならば、全てを攻めることができる。もしダメだったらそれはその時である。僕が成し遂げようと思っていることは、守りに入ってはできない。超攻撃的人生を進めることが最低条件になる。

医療が発達して寿命が延びること自体は悪ではない。しかし一部の人にとっては、それは決して善でもないように思える。重要なのは長生きすることではなく「どう生きるか」である。そのためには、「自分は何のために生きるのか?」と言うことを強く意識しなければならない。そして、その自分の生きる意義を最大限に高めなければならない。そのような事を考えた結果、僕は人生50年と言う結論を導き出した。そのためには、毎年毎日が勝負であるという意識を持たなければならない。「今日も勝負、明日も勝負」と思って生きていきたいが、どうしても心と体がそこまでついていかない。筋トレして筋力を鍛えるのも良いが、基礎的体力をつけ、心に毛を生やし、強靭な精神力を付けていきたいものである。そしてそれは可能であると強く思っている。

ルールを守ればそれで良いのか?

先日、スノーボードの国母選手が大麻の密輸で逮捕された。このことについては言語道断であり、弁解の余地は一切ない。守るべきルール(法)は守ると言うのが、法治国家に住む人間としては基本的には厳守となる。日本人は法やルールを確実に守るというのが世界的な認識になっているように僕は感じる。日本人は礼儀正しく律儀だ。それは非常に良いことだと思うが、僕はこのことを手放しには喜べないと思っている。

日本人はルールをしっかりと守る。では、もしルールがなかったらどうであろうか?日本人はルールがない所では意外とやりたい放題で羽目を外しているように感じる。例えば、外国人技能実習生の問題などはその最たる例であろう。日本人相手なら礼儀正しく約束を守るが、外国人技能実習生に対しては同じ人間として扱っていないような企業も多々ある。それは、「ルールがなければ何をやっても良い」と言う思考に通ずるものがある。ルールがなければ何をやっても良いのか?もちろん、法的には合法(脱法)であるかもしれない。しかしそこは規則を守ると言う次元のことではなく、モラルの問題である。もちろん、モラル意識が高い日本人もたくさんいるが、ルールがないところ、人が見ていないことろではモラルのかけらもないような日本人も多くいるように感じる。

そしてもう一つ問題になるのが、ルールの無批判な適用だ。これは特に学校の校則などでよく見られることであるが、意味のないルール、あるいはさらに害悪とさえ思えるようなルール、そして人間の自由な思考を妨げるようなルール、そのようなルールを無批判に適用し人を縛るような行為が見られる。これは思考力の欠如からくるものである。確かに法やルールは守るためにあるのかもしれないが、そのようなルールがあるからには明確な根拠がなければならない。しかし実際は何の根拠もなしに惰性や思い込みだけで作られているルールも存在する。そのようなルールに対しては、それはおかしいと手を上げて声を出すべきである。

法やルールには、明確な根拠、そして合理性があるべきだ。なのでそれらの法を打ち立てる政治家には良識と論理的思考力が強く求められる。校則ならば、そのような素養は教師や教育組織に求められる。そして我々は、ルールを守ればそれで良いと考えるのではなく、ルールを守りつつもその意義を考え直し、そしてさらに根本にあるモラルを身に付けることが必要ではないだろうか。

ホンゲル係数。

小学生か中学生のころ、社会科の授業でエンゲル係数と言うものを習った。家計の支出における食費の割合を表す数字だ。それにもじって、僕は「ホンゲル係数」と言う言葉を使っている。ホンゲル係数とは、支出における書籍代の割合だ。僕が勝手に作った言葉なので、おそらく世間では全く通用しない。しかし僕自身は、これはなかなか便利な言葉だと思っているので、最近たまに使っている。

ホンゲル係数は何を表現しているのか?それは知への投資の割合である。もちろん漫画を何百冊も買う人もいるので何とも言えないが、基本的には学問書などへの投資を想定している。僕自身のホンゲル係数は極端に高い。おそらく日本国民の上位0.01%には確実に入っている。書籍代が高いのか、支出が少ないのか、それは想像にお任せする。

しかし学問書・専門書は非常に高いものである。一冊一万円ほどする本は山ほどある。そのような高額書籍を毎月せっせと買っている僕も何とかしているが。しかしこれは将来を見越した確実性のある投資である。金融投資などはバカみたいなので一切やらないが、学問に対する知への投資はこれからも続けるつもりだ。

本を買っていくと、当たり前だが本がたまっていく。全ての本が役に立てばよいが、そのような事はあり得ない。一冊の本でも、その中の数ページでも役に立てば儲けもんなのである。数年後には高額な書籍代を維持しつつも、ホンゲル係数は下げていきたいものである。(つまり、収入・支出を上げる。)しかし、結果を出す前にホンゲル係数が高止まりすることは僕にとっては必要不可欠であると考えている。結果を出すまでもう少し、極高ホンゲル係数に耐えて行こう。

地球外知的生物はいるのか?

地球外知的生物の存在に関しては、いつの時代も話題になる。地球外知的生物とは、いわゆる宇宙人であると言える。宇宙人だと言ってしまえば話は変な方向(オカルト系)に行ってしまうことが多いが、多くの科学者は地球外知的生物、つまり宇宙人はいるだろうと本気で考えている。僕自身も以前は地球外知的生物はほぼ間違いなくいるだろうと考えていた。その根拠は、地球と言う宇宙の一つの星に知的生物が存在するという事実から、宇宙に存在する無数の星の中には知的生物が存在する星があると考える方が至って自然であろうと言う考えからだ。そしてこのような考えを根拠にすると、知的生物が存在する星の数は数個・数十個ではなく、何万、あるいはそれ以上あると考えるのが自然だ。

しかし、僕はある分野の知見を得ることによって、考えは大きく変わった。つまり、宇宙にいる知的生物が地球上の人間だけである可能性も非常に高いと言うことだ。では、何を根拠にそのような結論を出したのか?それは進化論だ。進化論と言えばダーウィンを思うが、現在はダーウィンの自然淘汰による進化論を基礎にしつつも、非常に高度な理論に発展している。その中に、数学(特に確率論・統計学)に基づいた数理進化学と言うものがある。そして数理進化学は、数理遺伝学に基づいている。つまり、進化を遺伝子レベルで考察し、数理モデルを構築していくと言うものだ。

このような分子的な遺伝子レベルで進化を考えると、人間が誕生するまでの進化の歴史は偶然と奇跡の連続であることがわかる。そのようなことは、数学を駆使して解析することによって鮮明になってくる。地球においても、人間が誕生する確率はほぼゼロであった可能性がある。しかし偶然に偶然が重なって、偶然に人間が誕生したと言えるのである。そのような事が数学的解析によって鮮明になるのは特筆的である。

例えば、猿にタイプライターを打たせてシェークスピアを書かせることは出来るか?と言う例え話がある。これは適当にタイプライター打っても、シェークスピアと同じ文章が書ける確率がゼロではない言う話だ。実際は、シェークスピアの長さを考えると、100億年打ち続けても偶然書き上げられる可能性はほぼゼロである。なので正岡子規の俳句にしよう。猿がタイプライターを適当に打って正岡子規の俳句が出来上がる可能性はほぼゼロであろう。しかし正岡子規の俳句が出来上がったのである。(実際は、猿が打って出来上がった俳句を「正岡子規の俳句」と名付けたと言うべきであろう。)正岡子規の俳句に当たるのが、地球での人間誕生なのである。

地球上に人間が誕生したからと言って、宇宙の他の星にも知的生物がいるという結論を出すのは早計だ。数理遺伝学による進化論からは、そのような結論を出すことができる。しかし、このことを証明することは容易ではない。知的生物がいるのならばその星を見つければいいが、いないことを証明するのはいわゆるブラックスワンがいないことを証明する問題に当たる。

地球は奇跡の星なのか?ありふれた星なのか?この答えに結論を出せる日が来るのかどうかは分からないが、数理遺伝学的に進化論を考えると、地球は奇跡の星である可能性が非常に高いと言えるのではなだろうか。

時短。

最近、時短筋トレを始めた。これまで筋トレをするとき、一時間くらいかけてじっくりとするのが僕の筋トレスタイルだったが、よくよく考えてみると、この一時間は長すぎて非常に無駄が多い。そこで腹筋と腕立て伏せの間に休みを挟まないとかして、全ての筋トレメニューを一気に行うことにした。すると、これまで一時間かかっていたメニューが15分以内でこなすことができたのだ。何と効率的なことか!一週間毎日こなしても、合計で一時間半ほどだ。これからはこのような時短筋トレで進めようと思う。

ところで、何のために時短をするのか?それは時間をつぎ込むべきところで思いっきり時間をかけるためだ。一日を振り返ってみると、時短をすべきところは意外とたくさんある。例えば、ネットで無駄なものを見過ぎないとか、風呂の時間を短縮するとかだ。ところで僕は超ロングスリーパーなので、どうしても睡眠時間をもっと短縮したいと思ってしまう。しかし、睡眠時間を削ると結局起きている時間のパフォーマンスが劇的に低下し、結果的には非常に効率が悪くなってしまう。もちろん人によって体質は違うし、3時間睡眠でもピンピンして活動的な人もいるので何とも言えないが、僕個人にとってはどうしても睡眠時間は削れないようだ。

今、僕が必要としていることは、最高の調子(パフォーマンス)と有効な時間だ。それを手に入れるためには、適度な睡眠時間と時短生活をすることが必用だ。時短を意識すると、普段の動きもキビキビとなる。一石二鳥(三鳥?)だ!いろいろと時間が限られている僕にとって、時短生活は未来の成功をもたらしてくれるものだと感じている。もともと時間の使い方が下手な僕にとっては時短生活は簡単な事ではないが、いろいろと工夫してこれから時短生活を強化していこうと思う。

文化勲章。

先日、文化勲章の授章式(親授式と言うようだ)が行われた。今年の受章者は6人であり、最も注目されたのは、今年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士ではないだろうか。しかしそれ以外の受賞者の中に、僕が尊敬する人が一人いる。数理工学者の甘利俊一博士だ。甘利博士は建前上「数理工学者」となっているが、その実績は非常に幅広く、数理脳科学から最近のAI技術にもつながるニューラルネットワークまで様々な研究貢献をされている。僕が一時期取り組んでいた、甘利博士の創始された情報幾何は、最も大きな貢献ではないだろうか。

もう数年前(10年前くらい?)だろうか、研究会で甘利博士と少しお話しする機会があった。当時から科学界では有名な方だったので、僕が持っていた甘利博士の著書にサインをお願いした。非常に温和で気さくな方だったように記憶している。もちろん、普段はどんな方か僕には分からないが、もしかしたら研究には厳しい方なのかもしれない。

甘利博士は非常に不思議な人である。何が不思議かと言うと、何が専門なのかわからないのである。あらゆることにおいて大きな結果を出されているので、どれを専門だと言っていいのかわからない。出発点は数理工学のようである。東大の計数工学科の教授もされている。その過程で、情報幾何学を打ち立てられた。情報幾何学は数学と言ってよい。そしてその後、理研の脳科学総合研究センターのセンター長をされ、数理脳科学の分野で大きな結果を出している。そしてその数理脳科学の知見に基づいて、AIのニューラルネットワークの理論にも貢献されているようである。

どう考えても、僕にはノーベル賞を受賞された吉野彰博士よりも甘利博士の方が偉大に思えてならない。現在83歳ではあるが、偉大な研究者は歳を取っても大きな研究を成し遂げる人も少なくない。現在現役かどうかは分からないが、残りの人生においての活躍を強く願うばかりである。