数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

18世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。

お金と価値。

「お金は価値」である。これは誰もが認めるところであろう。しかし「価値はお金」か?人によってはお金こそ絶対的な価値であり、「価値=お金」と豪語する人もいるであろう。しかし多くの人は、価値は必ずしもお金ではない、価値とお金は重なる部分はあるものの、別物であると認識しているのではないだろうか。

お金と価値は重なる部分がある。あるいはお金は価値の真部分集合であるとも考えられる。しかし本当に大事なのは、お金と価値の重なる部分ではなく、その重ならない部分、すなわちお金ではない価値ではないだろうか。このお金ではない価値というものは、人生の充実感に大きく関わってくる。そしてお金ではない価値を保持しているからこそ、お金自体の価値もより大きなものになる。

お金ではない価値の部分が大きい人は、お金を含めて価値の総量は圧倒的に大きくなると僕は考えている。例えば、人生を懸けるようなものがあれば、それはお金ではないはずだ。しかしもちろん、そこにお金が関わっていても全然良い。お金が関わる、すなわち人生を懸けているものを仕事にすると言う事は、最高にチャレンジングなことである。例え現在はまだお金になっていなくてもいい。しかし将来、その人生を懸けていることが大きなお金となって帰ってくるのならば、それを目標に挑戦し続けるのもいいではないか!

お金は決してバカにしてはならない。しかしお金が全てになってもいけない。お金の威力を存分に発揮しながらも、お金ではない価値を守り抜き、そして謳歌する。これが僕の目指す人生像の一部だ。もちろん、人それぞれ多様な人生像があってよい。人によってはお金が全てだと言う人もいるだろうが、それはそれで良いと思っている。そのような人はお金を得るために大きなチャレンジをしているかもしれない。それはそれでエキサイティングではないか!

僕は学問と言う最大の価値を発見した。それに人生を懸けてみようと心に決めている。紆余曲折あってまだ結果は出ていないが、もうすぐ出せるはず!そう強く感じている。

素敵なパソコン♪

スマホが圧倒的な存在感を示す現在においても、何か作業をするとなるとパソコンは欠かせない。スマホもコンピューターである事には変わりないのでスマホでもできない事はないが、やはり作業効率から言うとパソコンにはまだまだかなわない。

パソコンを買う時、どのような基準で製品を選ぶであろうか?男性ならスペックを重要視する人が多いであろうし、女性ならデザインを重要視する人が多いようだ。僕自身、確かにスペックは非常に考慮するが、最近はそれ以上にデザインを重要視している。そしてもう一つ加えるのならばコスパかも知れない。

作業効率だけを考えるとスペックだけを考えれば良いと思うかもしれないが、しかしデザインは作業効率を上げる大きな要素だ。なぜならお洒落なパソコンを前にして取り組めるかどうかと言う事は効率にも大きく関わるし、さらにクリエイティブな事に取り組むのであればそこでの気分などが大きくパフォーマンスを左右する。さらに人前でプレゼンをするとなると、パソコンのデザイン一つで聴衆の受けるイメージは大きく変わるかもしれない。なので、デザインがお洒落かどうかと言う事は、非常に重要なポイントである。

昨日、新しいパソコンを注文した。「HP Spectre x360 13」というタイプのパソコンだ。なぜこのパソコンを選んだかと言うと、スペック、デザイン、コスパの全てが最高であると感じたからだ。特にデザインは秀逸である。以前のブログで、次はMacを買おうと思うと書いたと思うが、それをも吹き飛ばすくらいのお洒落なデザインである。スペックは、CPU:Core i7、メインメモリ:16GB、ストレージ:1TB SSD、だ。スペックもかなり最強である。そして価格もかなり頑張ってくれている。買う前に実物を見ようと梅田ヨドバシカメラに足を運んだが、その時はまだ他のモデルと迷っていた。しかし実物を見て店員と色々と雑談をした後は、もうこれしかないと即決であった。

パソコンが家に届くのはもう少し後になりそうだが、商品が家に届いたらパソコンをレビューしてみようかと思う。ああ、商品が届くのが待ち遠しい・・・。

数学総動員!

数学は大きく三つに分けられる。「代数学」「幾何学」「解析学」だ。しかしこのような分類は人間が便利上勝手に作ったものであって、それらの間に明確な壁がある訳でも何でもない。従って、それらの間をまたぐような分野ももちろん存在する。「代数幾何学」などはその代表であるが、それ以外にも「解析幾何」「代数解析」さらには「数論幾何」などもある。また、例えそれらの一分野を極めるにしても、他分野の知識は不可欠だ。

大体、一つの分野を細分化して突き詰めて行くには限界がある。その限界を突破するのも一つの手ではあるが、他分野を融合するのは最も賢明な手だと思える。ポアンカレ予想(幾何化予想)は位相幾何学の問題だと考えられていたが、ペレルマン博士は微分幾何学の技術を使って解いてしまった。そのような例は多々ある。代数学の殻に閉じこもってしまえば、代数学の問題さえ解けなくなってしまう。大きな問題ほど、他分野の技術を導入して初めて解決可能になる。

数理物理と言う分野は、非常に曖昧な分野だ。何が曖昧かと言えば、人によって数理物理に対する定義はまちまちだし、また取り組んでいる問題もまちまちだからだ。“数学的”な物理と考える人もいれば、“物理的”な数学だと考える人もいる。しかし一つ確実に言えることは、数理物理は数学と物理にまたがる学際的な分野だと言う事だ。従って、数理物理の研究に取り組むためには、学問の壁と取り払わなければならない。代数も幾何も解析も関係ない。使えるものは全て使うのだ。それこそ「数学総動員」である。

この様に考えると、超学際的な分野である数理物理は、非常に大きな可能性を秘めた分野である。数理物理は、代数学と幾何学と解析学を物理と言う舞台の下で融合してしまうかもしれない。とてつもなく大きな野望であるが、そのような事を考えても良いのではと思う。ここでは数学と物理を例に取り上げたが、化学や生物学や地学、さらには社会科学や哲学においても分野の壁を徹底的に取り払い、超学際的に攻めて行くことが必要なのではないかと強く思う。

夏休み(お知らせ)。

今日から一週間ほど、夏休みとしてブログの更新を休止しようと思います。
一週間後に再開しますので、今後ともよろしくお願いします。

それは受け取る側が決める事だ!

近年、「何とかハラスメント」と言う言葉が度々取り上げられている。セクハラ、パワハラ、スメハラなどいくつものハラスメントが存在する。しかしそのようなハラスメントを加える人間の多くは、それがハラスメントだとは認識していない。逆に認識していないからこそハラスメントが横行するのだとも思う。

しかし近年の社会風土を見ると、このようなハラスメントが行き過ぎではないかと感じることもたまにある。当たり前の事だが、ハラスメントと言う言葉を逆手にとって、他人を陥れるのは論外だが、一部ではそのような事も存在しているようだ。

ではそもそも、何を持ってハラスメントが存在すると言えるのか?それは受けた側が不快に感じているかどうかだ。決めるのはあくまで受け取る側なのである。例え加えた人間がそのような認識が無くても、受けた側が不快であればハラスメントは成立する。「そのようなつもりはなかった」は基本的には通用しない。もちろん、常識的な範囲であれば考える余地はあるが、大抵は周りから見ればハラスメント的な要素は確認できる。

危害を加えて「そのようなつもりはなかった」と言い訳をするのは、人間としてもかなり卑劣である。しかしそのような弁解は社会でかなり横行している。これは普段の冗談にも当てはまる。冗談を言ったつもりでも、それを受け取る人が冗談だと受け取らなければそれは冗談ではないのだ。さらにたちが悪いのは、言った方が「おまえは冗談も通じないのか?」と開き直ることである。相手に通じない冗談を言い、それが通じない責任を相手のせいにする。これは非常に困った人たちである。冗談かどうかは受け取る側が決める事である。冗談だと言いたいのならば、言葉使いのスキルと常識的な知識、そして言う人の人間性を上げなければならない。

評価とは基本的に周りの人が行うことである。もちろん、自分の信念の正しさを自分で確認する分には、自分で評価すればよい。しかし人間のコミュニケーションというものは、基本受け取る側が評価するものである。自分の起こした行動を自分で評価するのは、多くの場合自分のエゴでしかないのだ。

一流とは?

社会では「一流とは何か?」と言う事がしばしば取り上げられる。僕のブログでもたまに一流と言う言葉を取り上げている。ではそもそも一流とは何か?

一流と言う言葉は、大きく二つの対象に使われる。一つは物に対して、もう一つは人間に対してだ。ブランド品に対して、一流ブランドだとか二流ブランドだとか言われることが多い。僕自身、ブランドに対しては全く否定的ではないし、確かに一流ブランドというものは物としても本当に一流であることが多い。しかし勘違いしてはならない事は、一流ブランドを持っている人が必ずしも一流の人間ではないと言う事だ。どのような物を持ち、どのような物を身に付ければ“外見的”に一流なのか?それはその人にふさわしい物を身に付ける事である。だからエルメスを身に付けている婦人より、ユニクロを着ているアクティブな女性の方がはるかに一流で魅力的だと感じることも多い。もちろん、精力的に活動し、それによってお金を稼ぎ、そのお金でエルメスを買って身に付けているのならばその人にふさわしく、一流の物を身に付けた一流の人間だと言える。ある意味、一流ブランドは人を選ぶ。それはお金を持っているかと言う事では全くなく、その人の生き方・人間性が一流か?と言う事である。

では一流の人間になるためにはどうすればいいか?決して一流ブランド品を持っていたり稀有な体験をしているから一流という訳ではなく、一流の人間が一流の物を身付けているから価値があるのである。お金を持っている三流人間が一流ブランドを身に付けている事ほど痛いものはない。

人間が一流かどうかと言う事は、生き方・人間性・思想に由来する。常に人生に対して挑戦し続けているか?人に対して思いやりを持ち、困っている人を助けることが出来るか?深い思考によって物事を考えることが出来るか?一流とはそのような事である。もちろん僕自身がそのように完璧な人間か?と言われれば完璧ではないが、自分が出来る範囲の事だけでもそのような人間に近づきたいと思っている。

生き方を見れば、その人が何流かは大体分かる。見かけだけの張りぼてか?あるいは外見からは想像できないくらいの精力的な生き方をしている立派な人間か?もちろん、人間性も外見も両方立派であれば非常に素敵だ。

一流の人間は大体仕事にこだわっている。二流は趣味にこだわる。一流は趣味さえも仕事にしてしまうたくましさがある。ただ、決していくら稼いでいるかと言う事が問題である訳ではない。趣味と仕事は覚悟が違うと言うことである。覚悟を持って物事に取り組めているかと言うことである。

ゴルフ・全英女子オープンで渋野日向子選手が優勝したが、彼女は常にスマイルを出し続け、考え込んでいる様子は微塵も感じさせなかった。そこに一流を超える“超一流”を感じる。超一流は、生き方でも魅せ、結果でも魅せるのである。もちろん、そのような結果を出せる選手は一大会一人だけに限られる訳だから、そんなにボコボコ出現する訳ではない。しかし人間性は誰でも磨ける。まずは自分自身の人間性で魅せられる人間になることが目指す所ではないだろうか?もちろん人間であるからには、良い所もあれば良くないところもある。良くないところを矯正しても魅せる人間にはなれない。良くないところがあっても、良い所をさらにレベルアップし魅せて行くことが大事ではないだろうか。

内容を伴っていない言葉にこだわるから、全く前に進まない。日韓関係。

現在、日韓関係は悪化の一途をたどっている。僕自身もそれについて言いたいことはいろいろあるが、そこはまず置いておこう。ここでは、そもそも何がここまで問題をこじらしているのか?その原因となっている二つの言葉を取り上げようと思う。

一つ目は「謝罪」と言う言葉だ。韓国は日本に対して執拗に謝罪を要求している。しかしこの韓国の言う「謝罪」と言う言葉にはほとんど具体性がない。日本の政治家が言葉で謝っても、韓国は更に批判する。お金を出しても批判する。なぜならこの「謝罪」と言う言葉は何を意味するかと言う事については全く語られず、批判するためのツールに成り下がっているに過ぎないからだ。すなわち、この「謝罪」と言う言葉には中身がない。中身がないものを持ち出しても解決するはずがないのである。

二つ目は「未来志向」と言う言葉だ。もちろん、この「未来志向」と言う言葉の概念についてはおおよそ誰もがイメージしているだろう。しかし、日韓関係においてはこの「未来志向」という言葉が形骸化している。やはり何を持って未来志向的な行動かが明確に示されていないのだ。だから何をしても未来志向にならない。日本政府はかなり未来志向的に問題に取り組んでいる。しかし一つ言うならば、何を持って未来志向的な行動なのかを、行動する前に明示しなければならない。それをしないと、何をしても未来志向だとは認識されない。もちろん、そのようなことをしたからと言って解決する保証はない。韓国と言う国は条約を反故にし、ゴールポストを動かし続けるような国だ。そのような事をし続ければ、日韓関係云々と言う以前に韓国の国際的信用の低下につながると思うのだが。他国の事ながら余計な心配をしてしまう。

現在、日本の政治は安倍一強だ。そのことについて批判もあるが、それは日本国民が選挙によって選択した道でもある。確かに一強であるが故の問題も山積しているが、逆に一強だからこそできる事もあるはずだ。(何も憲法改正だけを念頭に置いて言っている訳ではない。)国際関係、特に日米関係では、今の所安倍一強が力を発揮しているようだ。もちろん、これまで上手く行ったからと言って、これからも上手く行くと言う保証はないが。

とにかく、現在の日韓関係はあまりにも不毛すぎる。そのような状況を解決するためにも、韓国の言う「謝罪」「未来志向」という中身のない言葉にこだわることはそろそろ止めにしなければならない。

共産主義国家?日本。

日本は資本主義国家・民主主義国家である。少なくとも建前上はそうなっている。選挙は公平に行われるし、経済は資本主義の原則に則って行われる。確かに民主主義、資本主義である。

そして何より日本人・日本社会は公平・平等を最重視する。これはこれでいいことかもしれない。しかしそれも度が過ぎれば、共産主義的システムに傾く。最近の日本社会は、いや、昔からかもしれないが、このような共産主義的システム、共産主義的文化に傾いているのではないかと思うことが良くある。

日本の賃金は年功序列で横並びとよく言われる。最近は徐々に変わりつつあるが、これも日本の部分共産主義的側面ではないかと思う。しかしそれはまだいい。日本人全体の思考が過度な横並び思想になり、文化的に共産主義的になって来ているところが気になる。日本に旅行に来る中国人達の中には、「日本に来て本当の共産主義を見た」と言っている人も少なくないと言う。中国では思想の自由が制限され、とてもじゃないが自由主義とは言えないが、経済システム・社会システムはかなり自由主義・資本主義的になって来ている。もちろん、中国では思想の自由が確保されていないので、それに比べると日本はある程度思想の自由があると言え、一応自由主義国家であると言える。(ただし完全か?と言えば断言できない。)

日本は中国とは逆行して、システムがどんどん共産主義的になっているように思える。現政権を支持するかどうかはともかく、自民一強・安倍一強である。富める者は急速に富んで行き、才能や人間性が端に追いやられている。弱者を救うことは非常に良いが、現在のセーフティーネットが本当に弱者を救い切れているかどうかは疑問である。そしてそのようなセーフティーネットを食い物にするどうしようもない人たちがいる。多くの弱者達は、自分が弱者であるが故、声を上げる事さえできない。政府・自治体が能動的に弱者を救おうとしなければ弱者は救えない。しかし、政府・自治体はコストのかかるセーフティーネットの行使を極力避けようとしている。

現在は一部の人たちが大きな富を持ち、弱者とは言えない普通の人が多数おり、ある程度多数の弱者が悲鳴を上げている。しかし日本の共産主義的傾向が進行すると、それらの普通の人たちが“平等”に弱者になってしまう。ほぼ全員が弱者である国が弱者を救う事は出来ない。なので弱者が普通の生活が出来るようになり、普通の人がさらにより良い生活が出来るようにならなければならない。もちろん、現在の弱者と普通の人のレベルが逆転しても良い。現在の弱者が努力して大逆転するのも大いにありだ。むしろそのような事が可能な世の中にならなければならない。

日本と言う国は、どれだけ成果を挙げたかと言う事が評価される国ではなく、どれだけ失敗しないかと言う事によって評価される国だ。そのような国で、国民が積極的に挑戦しようとなるはずがない。しかし、世の中を変えることが出来るのは間違いなく挑戦者だ。そのためには、積極的に挑戦しようとする者の足を引っ張るようなシステムにすべきではないと強く思う。しかし現実は、何も行動しようとしない従順な人たちには都合よく、挑戦者からは挑戦権を剥奪しようとしている。そしてそれは、弱者を救えない社会システムと大きく関わってきている。なぜなら、挑戦権のない社会は、弱者の再チャレンジの権利さえも奪うことを意味しているからだ。

英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

「楽しい」の先。

今、何かに真剣に取り組んでいる人は多いだろう。ではなぜ、その対象に真剣に取り組むのか?

「好きこそものの上手なれ」と言う言葉があるように、楽しんで物事に取り組むことは非常に大切だ。そして人によっては、楽しむ事が一番の目的だと言う人も多いだろう。それも非常に素晴らしい事である。物事を極めて行くと、どんどん楽しくなる。その対象を理解し上手くできるようになれば、どんどん楽しくなる。ある意味、楽しさを感じると言う事は一つの到達点だと言えるかもしれない。

しかし物事を極めて行くと、その「楽しい」の先がある事に気が付く。スポーツに関しても学問に関しても、二流と一流の違いは、その先に気付くことではないかと僕は思っている。オリンピックで金メダルを取った選手が「非常に楽しめました」と言う事がよくある。その言葉は本当であろう。しかし、その金メダリストは、確実に「楽しいの先」を見通している。楽しいの先を見通しているからこそ、単に「楽しい」だけでは終わらせず、そのさらに上を目指せるのだ。テレビで金メダリストが言う「楽しめました」と言う言葉を聞いて、頂点に立つためには楽しむ事が全てだと勘違いする人がいるが、楽しむ事は必要条件であって、十分条件ではない。

では、「楽しい」の先とは何か?これは非常に難しい問題である。しかし一つ言えることは、本質を見ることに関係していると言う事である。本質を理解することは最大の喜びであり、また「楽しい」以上の快感である。しかし簡単には本質は理解できない。やはりかなりの修業を積まなければならない。そのような修業は決して楽なものではない。もしかしたら楽しくも何でもないこともあるかもしれない。しかし嫌ではないのだ。進んでそのような状況に身を置こうとしてしまう。なぜそのような状況にわざわざ身を置こうとするのか?それは「楽しい」の先を見ているからだ。「楽しい」の先とは何か?これは誰かが教える事ではなく、自分で気付くことだ。そして自力でそれを見通すしかない。

しかし初めは、楽しむという事が非常に重要だ。スポーツや学問を始めた子供なら、楽しむ事以上に重要な事はない。しかしそれを真剣に究めようと思うのならば、「楽しい」の先に気付くことは避けられないと思う。それに気付けば、あとはそこにたどり着くまでのビジョンを基に細部を詰めて行くだけだ。

心臓に毛を生やす。

僕は人生を積極的に、そして攻撃的に挑戦して行こうと前進している。そのような姿勢と安定は相反するものかもしれない。僕自身も安定を望んでいる訳では全くなく、むしろ人生に安定を求めたら自分の人生は終わりだと思っている。

しかし、そのように挑戦するためには、精神的には圧倒的に安定していることが必要だ。どんなことにも動じない精神力、そして圧倒的な余裕を身に付けなければならない。僕自身、数年前と比べると、かなり精神的な安定と余裕を身に付けて来れたと思う。しかしまだまだ完全ではない。僕の目指す所にはまだまだ達していない。しかしこれから、その目指す所にある精神力まで達する自信はある。そのためにこれからは心臓にどんどん毛を生やしていかなければならない。

心臓に毛を生やすとは面白い表現だと思うが、何なら脳にまで毛を生やして行こうと思っている。もちろん、頭に毛を生やし続けることも非常に重要である。精神は脳に宿る。ならば脳に毛を生やすと最強ではないか!心臓に毛を生やすことが出来れば、脳にも毛を生やすことが出来る。そのような毛だらけの精神を身に付けるために精神力を上げて行こう。

今現時点ではいろいろと苦しい事には間違いないが、ただ非常に充実している。目の前には明るい未来しかない。ただその明るい未来を完全に実現させるためには、まだまだ心臓に毛が足りない。挑戦し続けるために、どんどん精神的余裕を身に付けて行かなければならない。僕がまず実現すべきことはそのような圧倒的な精神力だと非常に感じている。そしてそれは実現可能だと確信している。

本の読み方、「専門書は2回読む」。

僕は平均よりはかなり本を読んでいる方だとは思うが、それらの本を読んで行くうちに自分なりの本の読み方というものを会得してきた。一般書に関してははっきり言ってどうでもよいと思っているので、軽く読む時もあればじっくりと読む時もある。そんなに読み方にこだわりは持っていない。

問題は専門書(論文を含む)の読み方である。僕は専門書をかなり買いためているので、はっきり言って全ての専門書を読破するのは不可能だ。そもそも専門書というものは読破するためにあるのではない。本に書かれている知見を基に、自分の構想を実現するためにある。だから専門書の読破にこだわることは無意味だ。しかしもちろん、じっくりと読破する専門書もある。しかし多くの専門書は、必要な知見を修得すれば、それで十分なのである。必要ない記述の所を読むのに力を入れるのなら、その力を他の専門書の必要な部分に向ける方が良い。

昔、僕の恩師の大学教授が、「本を最初から最後まで読もうとするのは素人だ。」と言っていた。学生のうちはどうしても「読破感」を求めてしまうので、最初から最後まで読もうとする。途中で読むのを止めるのは、必要な所を修得したからではなく、リタイヤが原因であることが多い。まあ、リタイヤすると言う事は、よっぽど無意味で退屈だからなのかもしれない。本当に必要だと思えば、何が何でも読み続けようとするものだ。

専門書を読む時は、一度目はかなり速いスピードで読み飛ばす。そして全体の概観を掴むことを重視する。数式の厳密な計算にもこだわらない。そして二度目はじっくりと細部を詰める。もちろん、計算も全て確認する。一度目の読書で概観を掴んでいれば、二度目は意外とすんなりと入るものだ。一度目の読書で概観を掴んでいるかいないかで、理解は大きく変わる。一度目から熱心に細かい計算をしていれば、それが何のための計算かわからなくなることがある。自分のやっている計算の意味を掴むためにも、一度目の速読は必要だ。

僕の専門書の読み方はこんな感じだ。もちろん、このような僕のスタイルは一夜にして確立された訳ではなく、長い時間をかけて確立されたものだ。そして僕に合っているスタイルが、他の人に対しても合っているとは限らない。時間をかけて、自分独自のスタイルを確立することが重要なのである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。

高橋政代博士、民間企業に移籍。

理化学研究所の高橋政代博士が、理研から民間企業へ移籍したと言うニュースが報じられた。高橋政代博士はiPS細胞を用いた眼科再生治療研究の第一人者で、iPS細胞治療の臨床応用に関しても世界で初めて成功している。高橋博士の民間企業への移籍は何を意味しているのか?そしてこれから基礎研究はどのように進むのか?少し考えてみたいと思う。

もっとも、僕は医療に関して全くの部外者であり、医療の専門家でも何でもないので、再生医療の未来なんて言う大それた事は何も言えない。ただ研究者としての立場からは何等か言えることがあると思い、少し自分の意見を書こうと思う。

日本の研究者は大きく二つに分けられる。公的機関の研究者と民間企業の研究者だ。数学や理論物理ならフリーの研究者というのも可能である。高橋博士は公的機関から民間企業へと渡ることになった。公的機関から民間企業へと移籍すると言う事は、公的機関にいては何か不都合があったのだろう。それは何か?それは大きく二つにに分けられる。一つは研究遂行に関する事。医学研究ならばしっかりとした施設が必要だし、それらを含めて多額の研究費も必要になる。理研がそれらを満たしていないとは考えにくいが、高橋博士の構想に照らし合わせるとそれらを満たしていなかったのではと考えられる。あるいは例え理研がそれらを満たしていても、オファーのあった民間企業がそれ以上の研究費と優れた施設を保持していたのかもしれない。それならばほとんどの研究者はその民間企業へと移籍するはずだ。高橋博士がこれからその優れた企業で、これまで以上の優れた研究成果を挙げることを強く祈るばかりである。なぜなら、高橋博士の研究成果は、医療と言う形で社会利益へと直で結び付くからである。

もう一つは、個人的な利益である。個人的利益とは、一言で言うと報酬、そして地位や名誉だ。日本では特にこのような面を軽視しがちだ。ひどい場合には、「研究者は好きな事をしているから、お金はいらないだろ」と言われることもある。バカヤロー!研究者だって人間だ。だから人権もあるし、成果に対して対価を得る権利もある。日本では、いや、世界でもそうだが、研究結果がたどり着く最終工程、つまり製品化や医療行為に対してお金が集まる仕組みになっている。だから企業のトップが儲かる訳であり、医者が儲かる訳である。同じ医者でも、基礎医学研究者は基本的には儲からない。だからお金が欲しい医学部生は、医学研究者ではなく医者になり、最終的には開業医になろうとする。では、多くの開業医と、山中伸弥教授や高橋政代博士などの基礎医学研究者ではどちらが偉大か?百人いれば99人は同じ答えを出すだろう。(もちろん、優秀で偉大な開業医もたくさんいる。)高橋博士が個人的にどうであったかは僕には知る由はないが、研究者にとっても報酬や地位名誉は非常に重要である。

多くの研究は一見金銭的利益には結びつかない。もしかしたら社会的貢献からも非常に遠い位置に見えるかもしれない。しかしそれは多くの本質を見逃している。まず研究結果というものは人類すべての知の財産であり、人間社会に多大な貢献をしている。そして金銭的利益に関しては、それが一年後に金銭的利益に結び付くかと言えば絶望的であるが、10年後に結び付く可能性はそれなりにあり、50年後、100年後にはほぼ確実に結びついている。しかしその時にはほとんどの研究者は息絶えているだろう。だから、研究者がまだ息をしている間にそれなりの対価を与えることが必要だ。高橋博士の移籍はその実現例であったのかもしれない。いや、そう思いたい。今回の高橋博士の例のように、基礎研究者が民間で活躍し報酬を得られる仕組みを積極的に作って行きたいものである。高橋博士の場合は医学と言う医療に直結する分野だから実現したが、数学者がその基礎研究を民間企業で行い、報酬を得、地位と名誉を得られる日は来るのだろうか?少しだけ期待してみよう。

本質的には、一人の力だ!

日本では何かと「みんなで力を合わせて」と言う言葉をよく使われる。確かにたくさんの人間の力が必要な事は多いが、そのような場合でも実質的には一人の力が大きくものを言っていることが多い。例えば二人で共同作業を行う時、貢献度が50対50なんてことはありえない。ほとんどの場合90対10、あるいは99対1という割合だ。大体、50体50で行うことは一見公平に見えても、実際は非常に効率が悪い。それぞれの力を最大限に発揮するためには、どうしても90対10にならざるを得ないのだ。

90対10なら、もちろん報酬も90対10にすべきだ。しかし、このような貢献度を正確に測るのは難しい。正確に分かるのは、二人、あるいは何人でやったという人数である。そうなると、この正確に分かる人数という数字で報酬や評価を等分割することになる。この様に、「見かけ平等」という不平等な状況があらゆるところで作られることになる。

それが嫌なら一人でやるしかない。しかし一人で全部やると言うのは、体力的負担以上に精神的負担が大きくのしかかる。しかしそれに耐えられるのならば、一人でやると言うのはなかなか良い選択だ。自分の目指す所へ、自分のやりたいように進めることが出来る。もちろん金銭的制約、そして社会的制約から完全に自由である訳ではない。取り組む対象を乗り越えると同時に、制約を乗り越えるという二つの壁を乗り越えなければならない。

多人数でやる場合、貢献度は決して等分割ではない。自分の力を合わせたからできたのだと言う人もいるが、ほとんどの場合一人の力に乗っているだけだ。そろそろ何でもかんでも「みんなで力を合わせて」という発想を止めたほうが良いかもしれない。社会とは多くの人間の営みの集まりであるが、そこを重視しすぎるあまり、一人で成し遂げるという発想が希薄になりすぎている。人間、「自分一人の力で、出来うる限り成し遂げる」ということも非常に重要である。そのような行為を繰り返すことによって、独力を身に付けなければならない。

人の言う事は真に受け取らない方が良い。

落合博満氏が中日のルーキーの根尾選手に対して、「人の教えを真に受け取らない方が良い」と言ったという。僕はこの意見に対しては非常に同感であり、僕自身もこれまで人の意見にできるだけ頼らずに生きてきた人間だ。野球界ではこれまでコーチの教えを真剣に受け入れ、そして潰れて行った人が山ほどいると言う。これは何を意味しているのか?それは「自分の事は自分が一番良く知っている」ということだ。そして無批判に人の意見を受け入れるのではなく、自分の頭で徹底的に考えて試行錯誤することが重要だと言う事である。

それは学問に対しても同じである。小学生や中学生ならともかく、大学で学問を学び研究するのなら、人の教えなど基本的に聞かない方が良い。そもそも学問と言うものは、自分の頭で思考して身に付けられるものだ。だから人から教えてもらうと言う行為は最終手段にした方が良い。一般的には、「人の意見をよく聞け!」とよく言われるが、それは平均的レベルの人間の話であって、もし頂点を目指すのならばむしろ「人の意見を聞くな!」あるいは「人の意見に左右されるな!」と言う事である。ただしこれはあくまでも、トップを目指す人間に対してのことである。多くの人間にとっては、人の意見を聞く方がはるかにメリットが大きく効率的である。

当たり前の事だが、プロ野球選手というものは野球界の頂点に君臨する者である。さらに根尾選手はドラフト一位という、ルーキー選手の中ではトップレベルの選手である。そのような選手に対しては落合氏が言うように、人の意見は真に受けない方が良いという意見は最もである。しかしそのような意見は、「自分の頭で考えろ!」と言う事でもある。

何もわがままで人の意見を聞かない訳ではない。自分の頭で考えることを重視しているからこそ、あえて人の意見を受け付けないようにしているのである。もちろんそのような姿勢で極めることは、かなり非効率である。しかしトップを目指したり大事業を成し遂げるためには、そのように非効率的ながらも徹底的に自分の頭で考えることが必要になる。現在の世の中は「効率!効率!」と効率性重視一辺倒である。そのような社会では小者しか生まれない。ただ生きて行くだけなら、そのような生き方の方がはるかにメリットが大きいだろう。しかしそのような生き方とは全く違った価値観を持った人間も世の中にはいる。圧倒的な少数派であるが、人の意見を受け付けず徹底的に自分の頭で考える。そのような非効率の極みの先に、自分の目指す世界が存在するのである。

炎天下で何も考えずに死に物狂いで倒れる高校球児の姿は、もうダサい。

先日、大船渡高校の佐々木朗希投手についての話題を書いたが、数日経っても佐々木投手の決勝での登板回避に関しては賛否が分かれているようだ。僕はこの佐々木投手の登板回避とそれを決断した監督に対して称賛を送ると言ったが、現代的な野球システムを考えると称賛ではなく、常識的な判断でさえあると思える。

投手の肩は消耗品だ。それは野球に対する現代的知識としては常識である。佐々木投手の登板を抑えたことは、日本の宝を守ったとさえ言える。もちろん、今回の登板回避によって佐々木投手の未来が100%明るいものになったという保証はない。登板を抑えても故障する時はするし、投げ続けても耐えられる人は耐えられる。ただ確率的な問題だと言える。今回の佐々木投手の登板回避は、将来の成功の確率を高めたものだと言える。

高校野球と言えば、炎天下で無我夢中でプレーし、倒れることが美しいとこれまで言われてきた。現在でもそのようなステレオタイプのイメージを高校球児に押し付ける人は少なくない。しかし、もうそのような野球イメージはダサい。“何も考えず”に死に物狂いでプレーし倒れるような選手に、今は美しさなど感じない。むしろ今回の佐々木投手のように将来のプロでの活躍のために肩を守り、将来に備える方がはるかにクールである。甲子園に出ることが絶頂であるような選手は(もちろん高校野球としてはレベルが高いのだろうが)、結局そのレベルの選手でしかないと言う事だ。佐々木投手擁する大船渡高校に勝利し、マウンドではしゃぐ花巻東の選手に器の小ささを感じたのはそういうことだ。(一言付け加えると、花巻東は菊池投手や大谷選手を大切に育てた非常に素晴らしいチームである。)

それでも、がむしゃらに投げ続けることが本来の野球の姿で、現在の野球選手は甘やかされていると言う人がいるだろう。ならば、そのような昔の日本の野球レベルと現在の野球レベルはどちらが高いか?火を見るより明らかである。30年ほど前までメジャーで通用した選手はいたであろうか?野茂英雄氏がアメリカに渡るまで、本格的にメジャーでプレーできた選手はいない。しかし現在ではほぼ毎日のようにメジャーで活躍する日本人選手の姿を見るようになった。明らかに圧倒的に現在の方が日本の野球レベルは高いのである。システムは日々科学的に洗練されたものになって行く。科学嫌いの人にとっては不本意であるかもしれないが、そのようにしてあらゆる分野のレベルは向上して行く。野球だって例外ではない。

炎天下で何も考えずにプレーする高校球児はもうダサい。そしてそのような姿をダサいと思われるような野球知識を、多くの人が付けなければならない。これからは頭を使い、考えながらクレバーにプレーして行く時代なのである。そのようなスマートな野球こそが、これからのカッコいい野球選手の姿である。

学問とビジネス。

学問とビジネスとの関係は微妙だ。工学関係の研究だと製品に直結することも多いのでビジネスに直に結びつくが、数学や理論物理に関してはビジネスに直に結びつくことはほとんどない。しかしそれは現時点だけの関係であって、工学ならば数年後に大きなビジネスに結びつくところが、数学や理論物理の研究に関しては50年後100年後になることが多いと言う事だ。実際に20世紀前半に打ち立てられた量子力学のシュレーディンガー方程式が数年後に実用化されたという話はあまり聞かないが、現代社会においてはシュレーディンガー方程式を用いていない電子製品などというものは存在しない。青色発光ダイオードの中村修二の発明対価が200億円であるという判決が以前出たが、シュレーディンガーの功績を現在のビジネスにおいて発明対価を計算すれば、おそらく数百兆円は下らない。おそらく現在世に存在する電子製品の全てがシュレーディンガーの発明対価の対象になるはずだ。

しかし、数学や理論物理の研究者がビジネスに熱を上げているという話はほとんど聞かない。数学者がビジネスに無関心であると言う話も良く聞くが、そもそも数学がビジネスに結びつくとは誰も思っていおらず、初めからそれをビジネスに結びつけると言う発想自体がないものだと思われる。しかし数学者であっても生活しなければならないことは変わらず、大学や研究所に所属する数学者は所属機関から給料をもらっている。

別にビジネスに無関心であることが美徳でも何でもなく。むしろ数学者であっても積極的にビジネス的視点で物事を考えることは必要なのではないかと僕は思う。しかし別に営業や商売などを考える必要はない。数学者には数学者しかできないビジネスがあるはずだ。そこを考えないと、数学者である意味が薄れてしまう。しかし、ビジネスに無関心で研究に没頭するのもそれはそれで良いと思う。物事には役割分担がある。学問の根幹となる部分を数学者が行い、ビジネスの末端になる部分はビジネスマンがやればいい。もちろん、そのように上手く行けばの話だが。

もちろん、数学の真価がビジネスにあるとは思えない。しかし数学者であっても、お金を稼がなければ生きて行くことはできない。そういう意味では、バリバリのビジネスマンでなくとも数学者も広義のビジネスというものは考えなければならない。とは言え、数学者や理論物理学者は、ビジネス的観点からはかなり不遇な立場に立たされているように思える。中には数学者にはお金儲けは必要ないと言う人さえいる。何を根拠にそんなことを言うのだろうか?

とは言え、数学は面白い。物理学も面白い。その純粋に面白いと言う事に没頭しているだけだ。そのように純粋に学問に没頭している数学者・物理学者に対して、ビジネス的に冒涜することはいい加減にやめてもらたいものだ。

自分を守らない。

生きて行くにあたって、自分を守ることは非常に大事かもしれない。ただ自分を守ることに専念しすぎると自由な身動きが取れなくなってしまう。さらに思考パターンが固まってしまい、頭脳からも自由さを失ってしまうことになる。

そこで僕がたどり着いた結論は「自分を守らない」と言う事だ。何かに取り組もうかどうかと考えた時、まずは自分を自由にする。もしそれをすることによって自分が犠牲になったとしても、それで良いのだ。実際はほとんどの場合自分が犠牲になることはない。大体97%は上手く行くのだ。犠牲になる3%の確率に恐れて動かないのはおかしい。だって97%は成功するのだから。もし残りの3%になれば諦めれば良い。そのような割り切りが重要である。

そもそも3%の失敗を過度に恐れることは、多くの場合ほとんどメリットはない。それどころか97%の成功の確率を信じて動き続ける方が、トータルで見るとはるかに得るのもが大きい。さらに3%の失敗が起こったとしても、大抵の場合人生が終わる訳ではない。まあ、終わったら終わった時の事である。それくらいの楽観性を持って進みたいものである。

もちろん、3%の失敗を恐れて動かないのならば、それはその人の自由である。しかしそれらの人は、97%の成功を目指して行動をする人が得るものを得る権利はない。ただそれだけである。もしかしたら、成功は50%かもしれない。いや、時には成功が3%の時だってある。しかしその可能性に懸けるのも悪くないと思う。とにかく自分を守ることを優先することだけはしたくない。そのためには自分をさらけ出すことが必要だ。

どこまで自分を守らないで進むことが出来るか?そのような挑戦的な人生があってもいいと僕は強く思っている。

大船渡・佐々木朗希投手の器。

高校野球地区予選決勝で、佐々木朗希投手擁する大船渡高校が花巻東高校に敗れ甲子園出場を逃した。大船渡の監督は決勝で佐々木投手の出場を回避すると言う決断を下したが、この決断に関しては賛否両論あるようだ。僕の個人的意見としては、今回の大船渡の監督の決断には称賛を送りたいと思う。

多くの人が言うように、佐々木投手は高校野球の世界で満足するような器ではない。彼には甲子園よりメジャーのマウンドの方が似合うはずだ。高校野球で頂点に立つのではなく、メジャーで世界一の投手になってほしいと願っている。

過去を振り返れば、イチローさんは甲子園で注目を浴びるなどと言う事は眼中にもなかったように思う。少なくとも甲子園で負けて泣くような男ではない。今回大船渡と対戦した花巻東高校時代の大谷翔平選手も、甲子園では目立った活躍はしていなかったように思える。(もちろん、高校で160キロを出したという記録はとてつもないが。)佐々木投手には、イチローさんや大谷翔平選手が見ている世界を見てほしいと多くの人は願っているはずだ。

今回の決勝で出場回避して負けたことは、佐々木投手の器をさらに大きく見せられたように感じる。大船渡に快勝した花巻東の選手たちはマウンドではしゃいでいたが、佐々木投手との対比によって逆に器の小ささを感じさせられもした。もちろん、花巻東と言うチームのレベルが非常に高いのは百も承知である。佐々木投手の器がデカすぎるのだ。

今回の敗退によって、佐々木投手の本領を垣間見ることは持ち越しになった。しかしそれは楽しみが先延ばしになったに過ぎない。数年後、メジャーのマウンドで雄たけびを上げる佐々木朗希投手の快投を楽しみにしよう。

初めの一撃だけは、データでは語れない。

世界で初めて物事を成し遂げようとするとき、もちろんデータなどは全く存在しない。しかしそのような中でも強引に他のデータを持ち込み、何が何でもデータから判断しようとする人たちも多い。そのような人たちはもちろん、世界で初めての事に成功するどころか、取り組む事さえできない。もし世界で初めて成功を成し遂げたいと思うのならば、データ以外からの判断を下さなければならない。

世界で初めて本格的スマホを世に出したアップルだって、それが世に受け入れられるかどうかの判断を過去のデータからは下せなかったはずだ。とは言え、ジョブズは成功するはずだという確信は持っていたはずだ。過去のジョブズの仕事を見ると、常識を覆すような仕事がいくつかある。そのような常識破りの成果を挙げるためには、データではなく論理的な判断、そしてこれまでの経験から来る直感を信じなければならない。

しかし、この直感というものが曲者である。どうすれば直感を磨けるのか?そのようなマニュアルは世界のどこにも存在しない。なので直感を身に付けようとしても、多くの人はどのようにすれば直感を身に付けられるか全くわからない。しかし直感を持っている人は、どのようにすれば直感を身に付けられるかが意外とわかっている。直観がある事が生まれつきの才能である訳ではなく、どのようにすれば直感を身に付けられるかと言う事が理解できることが才能なのである。

初めの一撃をどのように食らわすか?それを判断するためにはかなり先までのビジョンを保持しなければならない。そしてもちろん大きなリスクも取らざるを得ない。そのようなリスクを取るためには、それを上回る確信を持たなければならない。確信もなく大きなリスクを取りに行くのは単なる暴挙であり、パチンコなどのお金のギャンブルと何ら変わりはない。人生のギャンブルを行っている人は、意外と確信を持っているものだ。ただ周りから見るとギャンブルに見えるのかもしれない。リスクを取ることが大事なのではなく、リスクを取りに行くための確信を持つことが非常に重要なのである。そのためには、経験に基づく鋭い直感力を養わなければならない。

着々と進んでいる。

着々と進んでいる。そう言いたいところだが、少し停滞気味である。一つ目の到達地点は明確に見えているのだが、進んだり進めなかったりして、なかなかスムーズには行かないものだ。

そこでこの夏、少し気分転換に旅行に行くことにした。僕は旅行が好きなわけではないが、少し信州まで足を延ばそうと思う。この旅行はただ遊びたいという訳ではなく、少しでも研究の打開点を見つけたいという思いからである。もちろん、旅行に行ったからと言って研究が進むわけではないとは思うが、停滞気味なら何らかの違ったアクションを取ることが必要だ。何かが変わる30%くらいの可能性に懸け、三日くらい思いっきり羽を伸ばし、それなりにワインを飲んだりしようと思う。

選挙権。

7月21日、参議院議員選挙が行われた。今回の選挙の投票率は50%を割り、すなわち二人に一人は投票所に足を運ばなかったことになる。その理由は人それぞれであるとは思うが、「自分が投票しても何も変わらない」と言う意見も良く聞く。果たしてそのように考えるのは正しいのであろうか?

一人の票は数千万分の一である。問題はこれをどう捉えるかである。数千万分の一とはかなり小さい数字のように思える。これだけを見ると、自分の一票だけでは何も変わらないようにも思える。しかし、一票を投じた人たちの票の積み重ねによって政治は動いている。この数千万分の一が世の中を動かしているのである。こう考えると、投票している人としていない人では、イチとゼロなのである。政治家は国民がコントロールしなければならない。そして政治家をコントロールしているのは、一票を投じた国民なのである。

日本国民であるならば、中学高校で日本史を習ったはずだ。そこでいかに国民が選挙権を獲得して行くかと言う歴史を習ったはずだ。昔は一定金額以上の税金を払った男子だけが選挙権を保持していた。ある意味、選挙権を保持していると言う事は特権階級の証であった。そして徐々に一般国民にも選挙権が与えられるようになった。そのような歴史を習ったのならば、選挙権がいかに貴重なものかは理解できるはずだ。なので、自分が一票入れても何も変わらないと言って投票所に足を運ばない人は、自分の無知をひけらかしているのに等しい。

トップホストのローランド流に言うのならば、「日本人には二種類いる。政治を動かす人か、政治を動かせない人か」と言う事だろう。もちろん、政治を動かす人と言うのは投票する人であり、動かせない人と言うのは投票しない人である。もちろん、投票をしない人に対して投票を強要するのは間違っている。ただ投票をしない人は、自分の保持する権利をみすみす放棄している、ただそれだけである。

過去の栄光ではなく・・・。

人間とは未来に向けて生きて行くものだ。もちろん過去が全く関係ないわけではないが、やはり過去がどうあったかと言う事よりも未来をどうするかの方が圧倒的に大事だ。僕自身、過去がどうあったかはともかく、過去の栄光などには全く興味がないし(栄光などなかったかもしれないが)、過去の栄光ほどくだらないものはないと思っている。それよりも未来に栄光を作らなければならない。そしてそれを一つ成し遂げれば、また次に成し遂げるべきことを成し遂げるために前を向いて進まなければならない。

過去は変えられないが、未来は変えられる。変えられない事にこだわっても仕方がない。過去の栄光にこだわると言う事は、ある意味未来に栄光はないと言う事だ。なので、過去の栄光にこだわる人間ほどくだらないものはない。特に一番くだらないのは、過去の受験生時代の事にこだわる人だ。もちろん、受験に合格することは良い事であるが、それは過去の一瞬の出来事であり、大事なのはそこでの勉強を生かし、合格して入った学校でいかに頑張るかと言う事である。そしてそこでの努力を基に、未来を良い方向へと進めることである。

スポーツ選手でない限り、年齢はほとんど関係ない。いや、50歳を過ぎてもプロの第一線で活躍するキングカズのような選手もいる。キングカズを見ていると、年齢を言い訳にすることがいかにくだらない事かがわかる。確かに、スポーツでも学問でも若手の方が成果を出しているような統計はあるだろう。しかし統計がどうと言う事と、一人の人間がどうだと言う事は全くの別問題だ。なので統計にむやみに振り回されないことが大事だ。

未来の自分は今の自分にかかっているのであって、過去の自分は関係ない。いや、確かに過去の自分が未来に影響を与えることもあるだろう。それは事実だ。しかしそのような事にこだわっていれば、未来の自分を固定化してしまうことになる。ニュートン力学的には、今の状態によって未来はすべて決まってしまう。しかし、量子力学とは確率的であるし、不確定的な揺らぎもある。従って未来は固定化されていない。人間の人生というものは量子力学的だ。そのような量子力学的な人生の未来をどうするかは、今の状態ではなく、今の意志や思考にかかっている。

選挙に対するメディアの役割。

テレビニュースなどのメディアでは、度々政治家の不祥事が取り上げられている。そのような度重なる不祥事に対して国民の怒りも相当あるだろうし、そのような不祥事が政治家不信を招き、政治家に対する期待は無くなって行く。その結果、投票率は低下し、特に若者の投票離れが顕著になって行くのだと思う。

この様な選挙離れに対して政治家の責任は非常に大きいが、その一方、メディアの側にも大きな責任があるのではないかと僕は考えている。その理由は二つある。まずは政治家が自分に利の大きい高齢者向けの政策の発信がメインになる中、メディアもそれに対応して高齢者向けの政治ニュースをメインに扱っていることだ。それによって若者は疎外感を感じるのではないだろうか。自分には政治は関係ないし、政治家の側も若者の方を向いていない。そう感じられれば若者の足が投票所から遠のくのも無理はない。

もう一つは、メディアが政治家の不祥事は大きく取り上げるが、政治家の成果や取り組んでいる事を軽視していることだ。不祥事などは市民の目耳を集めやすい。以前話題になった号泣議員などはその最たる例だ。しかし政治家が今何に取り組んでいるのか?そのような事をいったいどれだけの人が理解しているだろうか?これは単に市民が不勉強だからと言うだけではない。メディアがこう言った話題をなかなか取り上げない事も原因である。号泣議員のニュースには膨大な時間が割かれてきた。しかし普段の政治家の取り組みに関するニュースはほとんど目にすることはない。相当能動的に知ろうと思わなければこのような情報を仕入れることはできない。

メディアと言えども商売なので、市民が興味ある情報をメインに垂れ流すことはもちろん理解できる。しかし政治家が現在何に取り組んでいるかと言う情報は非常に重要である。そのような情報を日常的に発信すれば、もう少し政治が身近なものになるのではないだろうか?若者の足を投票所に向かわせるためには、まずは日常的に政治ニュースに触れられる環境を作ることが大事である。

悪しき平等主義。

近年は平等と言う事に対して社会が敏感になっている。もちろん、平等な社会にすることは重要なことであるし、多くの事に対しては平等は良い影響を与える。しかし、思考停止的に平等にこだわってしまえば、それが悪しき平等主義に繋がってしまうこともある。

例えば企業でも給与に関しては、皆同じように昇給して同じ金額の給与をもらうことが平等と考えられて来た。最近は、同一労働同一賃金と言う事が広く問題に上がることが多くなったが、このような同一労働同一賃金には僕自身も大きく賛成である。同じ成果を挙げたのならば同一賃金を支払うのは理に適っている。問題なのは、ある意味同一労働同一賃金の対極にある事と言えるが、能力も成果も異なるのに“平等に”同一賃金を要求することだ。しかし日本では、このような悪しき同一賃金主義がはびこっており、それが日本の将来を暗いものにするのではないかと僕は、そして一部の人は危惧している。

そのような悪しき同一賃金主義の下では、能力のある者は正当に能力を評価してくれる海外に流れ、結局能力のない者だけが残ると言う事になってしまう。能力のない者にとっては居心地の良い日本社会である。よく言われているように、平等にすべきなのは、機会の平等であって結果の平等ではない。しかし、日本では結果の平等に極度にこだわっており、その結果、共産主義的な低いレベルでの平等が行われ、そのレベルは年々低くなってきているように思われる。

今日本で必要なのは、人物に対する正当な評価である。結果に対する平等ではなく、正当な評価が真の平等に繋がると僕は考えている。悪しき平等とは、見える所だけを平均で均した見かけ倒しの平等である。見かけではなく、その中身まで掘り下げて評価をしなければならない。そうしないと、世の中にはびこっている悪しき平等主義は無くならないであろう。

お金の価値。

お金の価値とは何か?と言う問いに答えることは意外に難しい。1000円は誰が見ても1000円だろ!と言いたくなるが、そもそもその1000円のお金とはどれだけの価値を持ち、何を意味するのか?と言う事は、現在の経済学をもってしても意見が分かれるところだ。昔は金本位制という制度によって、お金の価値が(貴金属の)金によって定義されていた。では金本位制が廃止された現在にとって、1000円という紙幣は何を意味するのか?明確な答えは確立していないように思える。

経済的なお金の価値とは別に、自分が考える自分にとってのお金の価値というものも人それぞれだろう。しかし次のように大きく分けられると僕は考えている。一つは千円はどのように手に入れたお金でも同じ千円だという考え。そしてもう一つは、同じ千円でもどのように手に入れたかによって大きく価値が異なるという考え。このどちらであるかと言う事によって、生き方も人生観も大きく変わると僕は思っている。僕は明確に後者の方である。

人生に基礎理念を打ち出し、そしてそれに基づいて何に取り組むべきか?と考えた時、お金に対する考えは重要になる。基本的には大きな金額のお金の方が価値があるが、ある時にはそれが必ずしも正しいとは言えないことがある。それは億万長者が(幸せな確率は高いかもしれないが)必ずしも幸せではないと言う事からもわかる。そして物事に対する感じ方も大きく変わるだろう。それが良いか悪いかは人それぞれの判断によるので、結論を断定することはできないが。

沢山のお金があればそれはそれで良い。ただ、そのお金の価値を満喫することが重要である。一億円あったとしても、それが百万円くらいの価値しか感じられず、百万円分の幸せしか感じられないのなら、それは百万円でしかない。逆に、百万円のお金で一億円に匹敵する価値を感じることが出来れば、それはお金を精神的にコントロールする最高の技術である。

お金の価値は、一つは社会経済に中にあり、一つは自分の思想の中にある。この二つにまたがるお金の価値を自分の中で上手くコントロールすることは、お金の価値を最大限に発揮するためにも非常に重要な事であろう。

「お金は未来のビジョンのためにある。」本田圭佑氏の言葉。

雑誌「GOETHE」2019年8月号(幻冬舎)に書かれていたサッカー選手・本田圭佑氏の言葉である。

人はなぜお金を稼ごうとするのか?この答えはいろいろとあるだろう。普通に生活するのにもある程度のお金は必要だし、物欲があればそれを買うためにもお金が必要だ。人と交際するのにもお金は必要である。本田氏が冒頭の雑誌で述べているように、資本主義国家で生きているからには何かしようと思えばお金が必要になる。本田氏は本気で世界平和を成し遂げようと行動しているようだが、それを成し遂げるためには膨大な資金が必要だ。

そのような中で一番重要なお金の使い道は、未来のビジョンのための投資だ。しかしこの事の重要さに比して、これを最も重要視している人は多くはないように思える。世の中では、特に日本では、子供の頃から貯金することが重要だと刷り込まれている。だから大人になっても、老人になっても、いざと言う時のためにとことん貯金しようとする。もちろん、無駄遣いするよりかは貯金する方が少しは有意義であろう。しかしそもそもお金は何のためにあるか?と考えた時、お金は貯めるためにあるのではなく、使うためにあると言えるのではないだろうか?しかし貯蓄のスキルは高いかもしれないが、お金の使い方のスキルを考えた時、どう使って良いかわからない人が少なくないのではないだろうか?

特に未来のビジョンのための投資と考えた時、いったいどれだけの人がこれを実行できているだろうか?自己投資と言った場合、ただ単にやみくもにセミナー参加への投資や資格取得のための投資しか出来ないようであれば、それは半分は違うと僕は思う。もちろん、そのような投資でも理に適ったものもたくさんあるので否定はしない。問題はそこにビジョンがあるかどうかだ。ビジョンなき自己投資はほとんど意味を持たない。

僕が今現在、お金をとことん自己投資しているのは、ビジョンを実行し成し遂げるためである。高価な専門洋書なども爆買いである。なぜそこまでできるかと言うと、明確なビジョンが描けているからだ。今はそのビジョンの中身を一つずつ埋めて行くことが重要である。そしてさらにその先のビジョンを描いて行く。本代圭佑氏が言うように、お金は未来のビジョンのためにあるのである。しかしたまには無駄遣いするのも悪くないと思う。下手な自己投資や意味のない貯蓄をするくらいなら、気分発散のためにお金を使うのも悪くない。しかし「未来のビジョンのための投資」と言う軸はぶれてはならない。そこをしっかりと死守すれば、一時的には苦しくなっても、人生を通じて見た時に非常に意義のあるお金の使い方が出来るのではないだろうか?

本という武器。

人間が生きる上で、何らかの武器は必要だ。それは仕事で使う道具であるかもしれないし、日常生活を送る上で必要不可欠の道具かもしれない。僕にとっては本が生きる上で必要不可欠な武器だ。だから本にかけるお金は惜しまない。少しでも必要になると思う本は手が届く範囲に置くようにしている。そのような環境が人生を次のステージへと進むめるのに大きな力になると思っているからだ。

とは言え、単に読書をするだけの本はそんなに必要ではない。もちろん僕も読書はするが、読書は僕にとって日常からの逃げである。数学や物理が思うようにはかどらない時に、気分発散的に読書をする。だから調子が良い時は読書をしない。読書をするのは、何もしないよりは読書でもする方が良いだろうと思うからだ。もちろん読書も非常に面白い。最近だと中公新書やちくま新書を読むことが多い。中公新書やちくま新書には知的好奇心を刺激するような本が結構出されていて面白い。

その一方、哲学書を読むことはめっきり減った。それは最近、哲学書に幻滅しているからだ。特にドイツ哲学などの、いわゆる本格的学問としての哲学書に失望することが多い。彼らは一体何をしたいのか?どう考えても科学的でなく、自己満足しているだけに思えて仕方がない。もちろん哲学は非常に重要であり、大きな意味を持っている。しかし学問的哲学者の議論には、本来の「生きるための哲学」という観点が大きく欠落しているように思えてならない。

多くの本を読むのも良いが、まずは一冊バイブルとなるような本を手元に置くと良い。もちろん軽い本ではなく、自分が打ち込むべき分野の専門書が良いだろう。そしてそこからさらに必要となる本が出てくれば、そこに加えて行けばよい。そうして行けばいつの間にか数百冊とたまってしまうこともあるが、そこまで行く必要もないとは思う。まずは一冊噛み応えのある本を手元に置き、それを武器として人生を進めて行くのが良いだろう。

数学とは遊び、ただし道楽では決してない!

僕が大学院時代にお世話になった数学者(世界トップクラスの数学者である)が、「だからこの遊び(数学)はやめられない」と言っていた。数学は一つの学問ではあるが、どのような学問にもゲーム的要素はある。だから学問をゲーム感覚で遊ぶことは重要であり、そのような遊びの中から重要な結果が生まれるものである。ただ、遊びとは言っても、決して道楽ではない。時には苦しい時もあるし、精神的に追い詰めないと乗り越えられないことも多々ある。

ビジネスというものも、ゲーム的要素は大きくあるのではないかと思う。だからビジネスをある種のゲームと捉えることが出来る人は強いのではないだろうか?もちろんビジネスにはお金がかかっている訳だから、失敗すれば大きな損失を被ることになる。だから軽い気持ちでは出来ない。ビジネスが道楽とは違うと言われる所以はそのような事だからである。

数学やビジネスと言った遊びの魅力に惹き込まれれば、テレビゲームや趣味などの遊びなど取るに足らないものだと感じてしまうだろう。もちろんそのような遊びをするのもよいが、数学で遊んでいる方が圧倒的に楽しいしやりがいもある。そして数学の中の未開の知に足を踏み入れることは、スリリングでありエキサイティングである。そしてそこで開拓した数学が、100年後の世界を大きく変えることになるかもしれない。ただ3年後という訳には行かないので、そこが少し寂しい所である。

世の中には人生を懸けるべき遊びというものが存在する。そのような遊びに打ち込むことは、自分にあらゆる力と人間性をもたらしてくれる。遊んでばかりと言うとネガティブな意味で捉えられることが多いが、数学などの人生を懸けるべき遊びに打ち込んでいる人は、人間的にも圧倒的に面白い。そのような面白い人間になるべく、数学と言う遊びに没頭したいものである。