合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。

世界!

僕はこれまで、特に世界と言うものを意識しなかった。数学や物理の研究などは個人プレーなので、海外で行おうが日本で行おうが同じだと思っていたし、特に海外でやることが優れているとも思っていなかった。それどころか、海外に出ないとできない人など、逆にダメなのではないかとも思っていた。もちろん、野球においては、海外・メジャーリーグに行かないと高レベルのプレーはできないし、海外でしか磨けないこともたくさんある。しかし僕自身の事に関しては、数年前まで特に海外を意識することはなかった。

しかし、そのような思いはここ数年激変している。今は日本にいてはダメなのではないかと強く思うようになり、一刻も早く結果を出して世界に出なければいけないと追い詰めている。日本の何がダメなのか?その理由は一つだけではない。保守的すぎる社会性であったり、法的に縛られ過ぎであったりと、言い出したらきりがない。少なくとも、僕にとって自由に研究ができる環境が日本にはないのだ。もちろん、海外に行けばそれが解決するという保証はない。結果も出さずに海外に行けば、状況はさらに厳しくなるのはわかっている。だからこそ、明白なる結果を示して海外に行かなければと思っている。

しかし、何に関しても海外の方が良いと言う訳ではない。治安に関しては銃弾が飛び交っている国は少なくないし、日本の飯は世界一おいしい。しかしそれを差し引いても僕にとっては海外に行くべきだと思っている。日本で野垂れ死にするくらいなら、海外で銃弾に当たる方がマシだ。それくらいの覚悟はできている。

もちろん、日本に住む方が圧倒的に合っている人も少なくない。いや、むしろそのような人の方がはるかに多い。日本は良い国だ。僕も日本は大好きである。サッカーやラグビーのワールドカップが開催されれば日本代表を全力で応援するし、日本の文化に対しても素晴らしいものは沢山あると思っている。そして何より、平和であることが素晴らしい。日本は素晴らしい国なのだ。しかしそれとこれとは違う。自分が日本の社会に合っているかとは別問題だ。僕はもう限界だ。一刻も早く結果を出して世界に出なければ!

白黒付けるだけが能ではない!

13日、フジテレビ・Mr.サンデーを楽しく視聴していた。その番組の中で、橋下徹氏ら4人が中心となって、日韓関係について討論を行うという企画が行われていた。その討論について、僕なりの意見・感想を述べたいと思う。

日韓関係の具体的な内容はここでは割愛するが、一つ気になったのは、パネリストたちが「韓国が悪い」「いや、日本が悪い」と必死で白黒を付けようとしていたことだ。僕は常々、白黒をはっきりさせることばかりが良いことだとは思っていない。時にはグレーゾーンをキープし、グレー状態を上手く運用することも必要だと思っている。特に政治家にはこのようなグレーゾーン運用能力が要求されるのではないか。玉虫色と言う言葉が政治ではよく使われる。どのようにも解釈できるという意味だ。このような玉虫の色のように解釈を上手く行うことは、時には非常に効果を発揮する。あるいは騒乱を避けるのにも必要であろう。そのような事は、今の日韓関係でも必要なのではないか。

現在の日韓関係は、白黒の押し付け合いだ。しかし白黒を付けることが最終目標ではないはずだ。お互いの国にとって最も利益になる落としどころを付けなければならない。そういう意味では、安倍首相が行った韓国に対するホワイト国除外の決定も、僕は一つの落としどころを作るための措置ではないかと見ている。この安倍首相の決定がなければ、永遠に白黒の付けあいになってしまう。韓国に対するホワイト国除外によって、事態は動き出したと僕は見ている。

Mr.サンデーの討論の中で、面白い発言があった。それは「隣国が仲良くする必要は必ずしもない」という意見だ。それは最もである。隣国だからこそ仲が悪い例も世界にはいくつもある。重要なのは、仲が悪くてもお互いの利益を最大化することではないだろうか。だから仲が悪いなら悪いで良い。要は大人の付き合いをすれば良いだけである。

白黒を断定せずに、グレーゾーンの中でお互いの利益を探っていく。今の日韓関係に最も必要な事ではないだろうか。そのためには、韓国にとって反日に固執することは賢い選択ではないし、日本政府と日本国民にとっても状況を冷静に判断することが必用だ。ただ、首相、大統領の影響力は非常に強い。そういう意味では、お互いの国のトップが賢明な政策を打ち出していくことは必要不可欠である。ぜひともグレーゾーンを上手く運用して落としどころを作って行って欲しいものである。

不謹慎か?

12日、大型台風が関東を直撃した。大都市東京を中心に広い範囲で被害が出ているようだ。昨今は防災意識が高まり、早い段階での避難もかなり徹底されるようになったが、それでも人的・物的被害は出てしまう。被害は防ぐことも大事だが、最小限に抑えるというのが近年の防災指針だ。

僕自身、災害時に何かをすることが不謹慎だとかいう発想は全くないし、逆に何かにつけて不謹慎だという風潮を作り上げることに対しては怒りさえも感じる。地震被害の被災者がバーベキューをして楽しむことはむしろ気分転換には必要であるし、被災地域に行き楽しんでお金を使うことは、被災地域への金銭的支援にもつながる。気分を暗くして謹慎することなど何のメリットもないばかりか、むしろ状況を悪くするだけだ。

しかし、現在のラグビー・スコットランド代表だけはいただけない。日本が台風被害に見舞われている最中に、試合が中止になることを非難し、法的に訴えるとまで言っている。スコットランド代表にとっては、日本人の被害などどうでもよいのかもしれない。とにかく自分たちの利益だけを確保したいようだ。繰り返すが、僕は謹慎しろとは全く言わない。スコットランド代表も謹慎する必要は全くない。しかし情況が情況である。少しは日本人の心境も考えてほしいものである。主催者側も試合が開催できるように全力を尽くしていると言っているのである。自然災害だけは人の力だけではどうにもならない。そこを少しは理解してほしいものである。

スコットランドは英国と言う由緒ある国家の一地域であるが、今回の騒動を見ていると何とも民度の低い人たちかと思ってしまう。僕自身、英国に対してはかなり良いイメージを持っている。しかし今回のスコットランド代表の対応を見ていると、それらの感情も崩れ落ちそうで何とも残念である。

ノーベル平和賞、アビー・アハメド氏とはどのような人物か?

2019年のノーベル平和賞に、エチオピアのアビー首相が受賞された。僕は恥ずかしながら、アビー氏の事は全く知らなかった。しかし僕自身、報道やニュースに関しては日々かなりチェックしているが、アビー氏の記事はこれまで見かけたことがない。もしかしたら僕が見落としていただけなのかもしれないが、日本の報道機関もこれまでアビー氏のような平和貢献者のことをほとんど取り上げなかったことに対しては責任があるのではないかと思う。

アビー氏は、約20年間続き沢山の犠牲者を出したエチオピアと隣国エリトリアとの国境紛争を、首相就任たった3か月で解決したという。このことは単に平和主義者という一言で片づけられることではなく、政治家としての手腕も限りなく高いことを示している。平和の遂行は、単なる平和主義だけでは実行できず、そこに実行力、政治力、そして人となりなどの総合力がなければ遂行できない。おそらくアビー氏はそれらの全てを備えていたのだろう。

平和主義者と平和貢献者は似て非なるものである。そしてアビー氏は平和貢献者なのである。

アビー首相は筋トレをこよなく愛する人らしい。そこでこのようなエピソードがあるらしい。

「去年10月、待遇に不満を募らせた兵士数百人が首相の執務室に押し寄せた際、アビー氏は兵士に腕立て伏せを命じて、みずからも一緒に取り組んだことで緊迫した空気を和らげたというエピソードもあります。」(NHK NEWS WEBから引用)

なんとも人間らしく、ユーモアと覚悟のある人物である。もちろん、単に筋トレをこよなく愛する人は沢山いる。しかしこのように、趣味をとっさに和平へと結び付けられる人はおそらく他にはいない。人間として非常に学ぶところの多い人物である。僕もこのようなアビー氏に一人の人間として学びたいが、そこまで実行できる自信は正直ない。

受賞前、おそらくアビー氏のことを知っていた人は少なかったと思うが、そのような人物が、しかも人間として尊敬に値する人物が、そして政治的手腕も絶大な人物が、このように人間としても首相としても多才な人物がノーベル平和賞を受賞することは、必ず世界の大きな財産になると思う。今年のノーベル賞は、確かに化学賞の吉野彰博士も偉大ではあるとは思うが、アビー氏はもしかしたらこれからの世界の平和を象徴する人物になるのではないかと思う。これからは、エチオピアの和平だけでなく、世界の和平にも大きく貢献して行って欲しいと強く願う。今回のノーベル賞はそれを後押しするものではないかと思い、今年のノーベル平和賞を選考した人たちに対しても喝采を送りたいと思う。

ノーベル化学賞・吉野彰博士は何を成し遂げたのか?

9日、ノーベル化学賞に旭化成名誉フェローの吉野彰博士が受賞されるという発表があった。日本人の受賞は喜ばしいことだが、吉野博士は何を成し遂げ受賞したのか?僕は専門外なので知らなかったが、吉野博士の論文一覧を調べ、その中に日本語で書かれた総合論文があったので、さっそくプリントアウトして目を通した。(「リチウムイオン二次電池の開発と最近の技術動向」日本化学会誌 (2000) No.8, 523-534 吉野彰, 大塚健司, 中島孝之, 小山章, 中條聡)

10ページほどの論文で、手っ取り早く調べるのにはちょうど良い。その論文によると、吉野博士たちは1980代から1990年代にかけて画期的なリチウムイオンバッテリーを開発したということである。では何が画期的であったのか?そこで良いバッテリーとしてのポイントが二つある。それは効率的であること、そして安定性(安全性)が高いこと。簡単に言えば、バッテリー開発とはこれらの追究である。そこで、これらを成し遂げるために、吉野博士たちは画期的な「負電極素材」を発見した。それが「負電極炭素素材」である。負電極を金属ではなく炭素素材を使ったことが画期的であったらしい。これによってブレークスルーを突き破った。

吉野博士らの負電極炭素素材の理論的基盤は、量子化学、特にフロンティア電子理論にあるらしい。フロンティア電子理論と言えば、日本人ならハッと気づくと思う。そう、日本人で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論である。ちなみに、2000年のノーベル化学賞受賞者の白川英樹博士の研究も関係しているらしい。

とは言え、吉野博士の研究の神髄は、理論ではなく実験にある。理論を言うのは易いが、それを実験で実現するのは難い。理論屋の僕にとって、吉野博士のノーベル賞受賞は少しだけ実験科学へ目を向けさせてくれた。今回、吉野博士の論文を読み、実験の見識と面白さを分けさせてくれることになった。

リアル人生ゲーム。

人生とは非常に貴重なものだし、時には非常に重いものでもある。しかしいつもそのような重さを抱えていては、進むものも進まなくなってしまう。なので時には気楽に、そして時には人生をゲームのように捉えて進むことも非常に重要だ。

人生においてピンチになったとき、そのような時こそゲームのように捉えて物事を進めることが威力を発揮する。ピンチの時にはどうしてもネガティブに考えがちだ。なのでゲームを一歩一歩遂行していき、詰むか詰まれるかという攻防を行っていくことは非常に有効である。そして何より、ゲームと捉えることによりネガティブな事がポジティブに考えられる。従って人生が面白くなる。面白くなれば物事がどんどん前に進みだす。そして成功へ近づく。人生というものは、深刻に捉えればよいというものではない。

とは言え、このようにピンチを楽観的にゲームのように捉えることは簡単ではない。しかし明らかに楽観的な方が物事は成功しやすい。少なくとも僕はそう考えている。慎重に考えすぎて前に進めないくらいなら、とにかく前に進んだ方が良い。学問でも、あれこれ考える暇があれば、とりあえず問題や理論に取り組んで少しでも前に進めることが重要だ。

人生とは結果も大事だが、過程も大事である。そしてそのような過程の一つとして、リアル人生ゲームと捉えることも一つの重要な手である。ゲームと捉えることにより、手段が一つ増えるわけだから、それは人生の豊かさにもつながる。選択肢は多数持っていた方が良い。そしてそれと同時に、それらの選択肢からどれが一番適切かという判断力も必要だ。過程も結果も重要だが、最終的にはどれだけ人生を豊かにできるかということであると僕は強く思っている。

ノーベル賞を知ることは良い指針になる。

今年もノーベル賞の季節がやってきた。7日の生理学・医学賞では日本人の受賞はならなかったが、毎年どのような研究がノーベル賞に輝くのか、興味が注がれる。一般市民の興味としては、どうしても日本人が受賞するのかということばかりに注目が集まるが、「誰が?」と言うこと以上に、「何が?」と言うことに注目することが非常に重要だと思っている。

科学の分野は非常に広大なので、一般市民が科学の全貌を知ることは非常に難しいが(科学者だって全貌を知ることは難しい)、現在注目されている分野、そして重要な分野を知るのに、ノーベル賞の対象になった研究内容を知ることは非常に良い指針になる。ノーベル賞の受賞対象になった研究はどれも重要なものばかりだ。だからノーベル賞の受賞対象になった研究の概要を知れば、一応一つのポイントを押さえることになるだろう。毎年のノーベル賞の対象になった研究を知れば、その時の研究のトレンドを押さえることができるかもしれない。しかしノーベル賞の対象となるのは二昔くらい前の研究内容であることが多く、現在進行形の研究内容を知るにはどうしても無理がある。しかし二昔前の研究であっても、知らないより知る方がはるかにましだ。

2016年に生理学・医学賞を受賞した大隅良典博士の研究内容であるオートファジーという現象は当時僕は全く知らなかったが、最近生物学の教科書を読んでみるとオートファジーが基礎的現象として書かれている。大隅博士のノーベル賞受賞がなければ、そのような事も見逃していたかもしれない。

ノーベル賞受賞研究に対して「専門外だから」とか「自分には関係ない」とか言って興味を示さない人もいるかもしれない。しかし専門外だからこそ知る価値があるのである。専門の事なら、わざわざノーベル賞を待つまでもないわけであって、例えば僕ならば専門の物理学よりも、専門外の生理学・医学賞の方が興味を惹かれる。科学の事がよくわからないのならば、まずはノーベル賞の研究について調べてみて、そこから興味の範囲を広げていくのも非常に良いアプローチだと僕は考えている。

コーヒーの調節が意外と難しい。

最近、コーヒーの調節に四苦八苦している。コーヒーを飲むことによって、調子が大きく変化することがあるからだ。特に頭の働きに大きく影響していると強く感じている。数理物理の研究をしている僕にとっては死活問題だ。もちろん、全ての人がコーヒーによって影響を受けるとは思わないが、コーヒーの摂取量は自分でコントロールすることが必要だと強く感じている。

コーヒーを飲むことによって、ストレス調整ホルモンであるコルチゾールという物質の分泌に影響してくると言われている。もちろん、僕はそのような事の専門家ではないので軽く言うべきではないのかもしれないが、ただ色々な情報を入手すると、もしかしたらこのコルチゾールというホルモンに調子が影響されているのかもと考えている。僕自身、ストレス耐性は非常に低い方だと感じている。これまでコーヒーを半無限的に飲みまくっていたので、もしかしたらこれが影響しているのかもしれない。なので最近は、飲んでも一日に三杯までに止めている。

ただ、コーヒーが大好きな僕にとってはこれはかなりきつい。朝起きるとどうしてもコーヒー一杯飲みたくなる。しかしここを我慢して、起床一時間半後まではできるだけ飲まないようにしている。この起床直後がコルチゾールの分泌に一番影響するそうだ。

コーヒーを飲み過ぎても全く影響のない人は何も考えずに飲み続ければ良いが、僕のようにコーヒーを飲むとパフォーマンスに影響するのなら、自分でコントロールすることが必用だ。僕自身、様々な欲求をコントロールすることはかなりできる人間だと思っているが、これまでコーヒー中毒を自称していた僕にとっては、コーヒーのコントロールはかなり厳しいものである。ただ、コーヒーのコントロール一つでパフォーマンスが上がるのなら、徹底的にコントロールしていく覚悟はできている。

金と暴力。

現在、関西電力幹部と高浜市元助役との間での賄賂が問題になっている。そこには、権力を利用した金と暴力の構造が強く見られる。高浜市元助役がその地位を利用して、権力と私腹を肥やしていた構造、そして関電幹部がそれに応じて多額の金品を受け取っていた現実。それはまさしく金と暴力に汚染された社会そのものではないだろうか。

報道によると、関電幹部が高浜市元助役(故人)から多額の金銭、多量の貴金属(約三億二千万円相当)を受け取っていたという。これ自体も非常に大きな問題であることは間違いないが、さらに問題なのは元助役が金品を受け取った関電幹部に、このことを弱みとし恫喝していたということだ。そしてこのような恫喝は地元においても行われていたという。まさしく、金と暴力にまみれていたとしか言えない。

このような元助役の行為は、明らかに反社会的行為である。地元社会・地元市民に対する反社行為、そしてそれらに対する暴力である。そしてこれらの賄賂に関係する金品は一般市民の税金から充てられたと思われ、社会の経済的損失でもある。従ってあらゆる意味で悪質であり、悪質をさらに悪質で重ねていると言える。

この事件の主人公である元助役はすでに死んでいる。従ってもう本人に対して罪を償わすことはできないが、これは死に得と言えるのか?元助役本人は死に得かもしれないが、その付けは全て残された人が払うことになる。そういう意味ではこの元助役の行為は、さらに三重以上に悪質だと言える。日頃、金銭に関する犯罪はニュースで頻繁に見かけるものであるが、この事件に関しては金銭的にも、さらにはそれらに関する恫喝・暴力も重なり、悪質さのレベルはその比ではない。これらの類の逃げ得、死に得は決して許されるのもではなく、厳正に対処されることを強く望む。

独創とは、先端よりも意外と根っこにあるものだ。

どの分野でも独創性は大事であるし、大きな変革は独創から生まれる。では、独創はどこから生まれるのか?もちろん、最先端の物事から生まれることもあるだろうが、僕はむしろ根っこから生まれると感じている。最先端の物事においては、どうしても継ぎ足しを繰り返すということが多くなる。もちろん継ぎ足しにより発展はしていくが、大きな変革は見込めないのではと思う。それに対して、根っこと言うものはある意味基盤であり核心である。そのような核心を極めながら、ある時核心を覆す。それでもさらに核心的な事は維持されるかもしれないが、そのような変えるべき核心を変革し、維持すべき核心を守り抜く。そのような事によって独創的な革命は起こるのだと感じている。

日本は独創性に欠けると言われることが多い。いや、日本でも世界に誇る独創は存在する。近年はノーベル賞受賞者も多数出てきているし、文化的な事柄に対しても独創は多く存在する。しかし、近年のノーベル賞の対象となった研究内容の多くは二昔前の結果であるし、今世界で注目を浴びている日本文化も古くからあるものだ。では、現在進行形の独創は存在するのか?と考えた時、僕はアニメを思い出した。現代日本アニメは世界に誇る大きな独創である。アニメの映像を見ると、日本のアニメはアメリカなどの海外のアニメとは何段もレベルが違う。それは素人目にも明らかである。しかし、日本のアニメの世界において独創を求めようとはあまり聞かない。もし手軽い独創を求めていたら、確実に現代の日本のアニメは存在していないだろう。

では、他分野ではどうだろうか?例えばビジネスにおいて、さらにはITにおいて、日本の状況を見ていると、至る所で独創性が重要だと言われている。しかしアニメとは反して、ビジネス・ITで独創はあまり存在しないように思える。その原因は、手軽い独創を求めようとしているからではないだろうか。具体的には先端を継ぎ足していくこと。それを独創と勘違いしている。さらに言えば、そのような事が最先端であるかどうかも怪しい。最先端を求める方向性で行くならば、徹底的に最先端を極めなければならない。しかし今の日本の状況を見ると、それができているとは言えない。

なぜ、現在の日本は独創も出せずに、さらに最先端も出せないのか?(もちろん、全てがそうであるわけではないが。)それはあまりにも周りを見過ぎているからではないだろうか。何をするにも周りの状況を見て判断する、そのような姿勢が染みついている。他の人が最先端の結果を出してからそれを追おうとする。それは明らかに二番煎じでしかない。しかしそれが今の日本の現状である。

しかし、日本の中にも大きな独創性を持った人は確実にいる。心配なのは、そのような大きな独創性を持った人が、日本で潰されないかどうかだ。そう考えると、潰されないうちに日本を出た方が良い。そうなればやはり日本から一つの独創が消えることになる。しかし大きな独創人は、まずは大きな結果を一つ出して世界に打って出るのが賢明かもしれない。

最近、あらゆる学問が面白い!

最近、あらゆる学問に対して面白いと感じている。以前はサイエンス、特に物理・数学に対してだけというところがあったが、今、あらゆる学問が面白く感じ、あらゆる学問に取り組み始めている。

なぜ、以前は他の学問に興味を持てなかったのか?その理由を考えると、一つ目は学問と言えば受験勉強を意味していたこと、もう一つは時期的なものであると僕は考えている。受験勉強というものは非常に小さいものである。そして表面的なものである。なので、なかなか面白さの核心に迫れない。そのような中、本当の面白さを伝えようとすると、自然、受験勉強の範囲を超えてしまう。しかし学校ではなかなか受験勉強を超えるようなことを教えようとしない。僕が大学受験生だったころ、自分が取り組んでいた数学や物理学は、高木貞治の解析概論であり、ファインマン物理学であった。しかし受験にこだわていると、なかなかそのレベルの事まで取り組もうとは思えない。このような事を解決するためには、学生と学校の教師の双方の意識を変えなければならない。

とは言え、大学に入れば自由に学問に取り組むことができる。しかし一般教養の授業の中には、どうしてもやりたくない授業も存在する。僕ならば第二外国語のフランス語の授業がそうだった。しかし今、あらゆる学問が面白く、フランス語にも興味を持っている。要はやりたくなった時にやればよいのである。学生時代にやりたくなければ無理してやる必要はない。しかし面白く感じた時には思いっきり取り組めばよい。それでいいのである。

科学(サイエンス)と言うものは、層構造をなしている。一番土台になるのは物理であって、その上に化学(バケガク)、生物学・地学と重なっている。なので、生物学に取り組むためにはその土台にある化学を理解しなければならない。もちろん、さらに基をたどれば化学は物理を土台にして成り立っている。今、専門の数理物理の研究の合間に、生物学の勉強に取り組んでいる。しかしその土台にある化学が完全に理解できていない。なので化学も真剣に取り組む必要がある。そのような事を考えると、学問というものは全て有機的に繋がっており、全ての学問に対して(強弱はあれ)取り組む必要があるのかもしれない。

学問に取り組むうえで大切なのは、受験勉強ではなく楽しさの本質に迫れるレベルまで取り組むこと、そして面白いと思ったときに思いっきり取り組むことである。学問とは本質的に楽しいものである。(そして時には苦しいものでもある。)そこに学問の本質が存在していると僕は思っている。

調子の悪い時の過ごし方。

誰もが多少の調子の波はあるのかもしれないが、僕はかなり波がある。調子の悪い時は、数式がなかなか頭に入らない。そのような時にどう過ごすかは、僕の大きな課題である。

数式が頭に入らないので、そのような時は数学・物理以外のことに取り組むことにしている。例えば生物学や社会学、歴史学などである。それらは専門外(そのような区別は自分の中ではあまりしていないが)なので、少しはリラックスして取り組める。学問以外にも、例えば普通の読書であったり、あるいはYouTubeを見て過ごすことが多い。ただ、そのような過ごし方をしていると頭がなまりそうで怖いが、調子が悪いので仕方がない。

最近、生物学にはまっている。大学で使うような生物学の教科書を読んだり、時にはiPS細胞などの論文を読んだりするが、これがなかなか面白い。ただ英語はかなり苦手なので、英語論文を読むときには苦労する。少し前、経済学の論文を読んでみたが、他分野の英語論文はやはり苦労する。数学や物理の英語論文は読みなれているので、ある程度スラスラと読めるのだが(と僕は勝手に思っている)、山中伸弥教授のiPS細胞の論文はなかなか読み進められない。

調子の悪い時は悪いなりの過ごし方があると思うが、なかなかそれを見出せずにいる。何かに取り組み目標を達成しようと進んでいる人にとっては努力することが必須であるが、その努力ができない状態と言うのはかなりつらい。しかし明日になったらまた調子が戻っているであろうと楽観することも大切かもしれない。まあ実際、明日になったら数理物理に没頭しているだろう。いや、そうしよう。

他人からの評価ではなく、自分の信念に基づく。

最近、自分が自分らしくないように感じることがよくあった。そこで何が自分らしくないのか?そしてその原因は何なのか?と問い詰めたところ、その原因が、他人からの評価を気にし過ぎていることであることに気が付いた。自分の独創性にこだわっているのに、他人の評価を気にしすぎるとは全くおかしな話である。

科学とは真理への追究である。もちろん、研究結果に対して周りや社会からの評価は気になるところではある。しかし、そのような評価はあくまでも付加的な要素でしかない。もちろん、工学系の技術分野では社会の評価は非常に重要な要素である。しかし理学的ないわゆる純粋科学では、そのような周りからの評価ではなくどこまで真理に迫れているかということが最も重要な要素である。だからこそ、宗教裁判で裁かれ社会から滅多打ちにされたガリレオ・ガリレイが、現在では最も大きな評価をされているのである。

他人からの評価の中で生きるとは、ある意味楽な生き方である。誤解のないように付け加えるが、もちろんそれは簡単であるという意味ではない。責任があらゆる範囲に分散されるという意味である。自分の信念に基づいて生きるとは、全ての責任を自分が負うということである。その重圧は非常に大きいように思えるが、自分が正しいと思う方向へ進んでいる時は、意外と重圧を感じないものだ。しかし冷静にリスクを考えると恐ろしくて進めなくなってしまう。

なぜ他人からの評価を気にし過ぎていたのかはよくわからない。しかしいつの間にか周りの評価を気にしていた自分がいた。しかしそのような状況は自分が望むことではないことは明らかだ。だから軌道修正、いや、大きく変換して元に戻す必要がある。しかしそれはそんなに難しくはないと自分では感じている。なぜなら自分で問題点に気づいており、意識をそちらへ向ければ良いだけだからだ。意外と明日には元に戻っているかもしれない。また自分が強くなりそうでワクワクしてきたぞ!

これからの自動車。

現在、自動車は大きな変革を遂げている。電動自動車から燃料電池車、そしてその名の通り“自動”車、つまり自動運転車まで、話題は尽きない。自動車を評価するとき、評価基準は様々なので一概にどの車が良いとは言えない。昔なら最高時速や馬力などの評価が中心だったが、現在ではどれだけエコかという基準が大きなウェイトを占めている。

そのように変わりゆく判断基準の中で普遍的な基準と言えば、どれだけカッコいいか?ということだろう。特に男性ならカッコ良さにこだわる人は少なくない。女性においても、お洒落かどうかは気になるところだろう。カッコ良さと言えば外見を想像するかもしれないが、一部の高級車においては排気音などにこだわる人も少なくない。特に街中で大きな音を出して排気音をふかしている車もよく見かける。

しかし僕は思うのだが、十年後に大きな排気音をふかして目立とうとする人などいるのだろうか?いや、おそらく十年後もいるだろう。しかし問題は、それがカッコいいかどうかだ。今は大きな排気音をふかしているフェラーリがカッコいいと思われている。しかし十年後にはとてつもなくダサい行為だと思われているに違いない。何しろ電動自動車の時代である。もしかしたら、水素などの燃料電池車も普及しているかもしれない。どう考えても、静かな車であることがステータスだ。フェラーリからも静かな電動車が発売されているかもしれない。(今でもハイブリッド車のフェラーリが存在する。)

個人的には燃料電池車が普及してほしいと強く願っている。現在では燃料電池車はトヨタの独壇場だ。しかし少し前、トヨタが燃料電池車の技術を他社に向けて公開した。それがきっかけかどうかは分からないが、先日BMWが燃料電池車の試作車を公開したというニュースがあった。電動電池車の元となる電気のほとんどは、元をたどれば発電所で使用される化石燃料であり、原子力だ。どう考えても水素を燃料とする燃料電池車の方がエコである。しかし、その水素を製造するのにも電気が必用である。そうなれば、どちらがエコ的に効率的かということである。

とは言え、電動自動車よりも効率的かつエコ的なガソリン車という選択肢も残されている。今、マツダがそのような道を突き進んでいるようだ。これは従来の延長線上にあるように思えるが、現在のトレンドから言えばむしろ独創的である。こうなれば、後は市民がどれを選ぶかということにかかっている。そこで的確な判断をするために、我々市民も様々な技術的知識を習得することが求められる。とは言え、時代に逆行するようなバカな判断も僕は個人的には嫌いではない。

進化生物学者・木村資生博士に対して下した僕の評価。

最近、進化生物学者の木村資生博士(1924-1994)の書いた本に目を通した。科学書としてはかなり面白い本であった。その木村博士に対して僕は評価を下したい。進化生物学者としては一流であると感じたが、人間としては極度に視野の狭い人間である。人間としての評価は低いと下さなければならなかった。もちろん、僕は木村博士に対して評価を下せるような立場の人間であるわけではない。ましてや僕は生物学の専門家でも何でもない。それを承知の上で僕が下した評価である。

木村博士が人間としてどのように低レベルなのか?その理由を書き表したいと思う。生物学の知見を人間に適用するときには、特に慎重にならなければならない。そして一側面から見た判断ではなく、多面的に捉えなければならない。しかし木村博士は、人間を遺伝学的にしか捉えられていない。人間の未来に対して、非常に狭い視野からしか捉えられていないのである。そして慎重さが全くない。さらに批判の受けそうな意見は他の学者の受け売りであると責任を逃れている。

もちろん、進化遺伝学的な見地からの意見としては一理ある。しかし人間の将来を論じるにあたっては、遺伝学的な視点だけではすぐに限界に達してしまう。人間の未来を建設するとき、一番大事なのはいかに人間が人間らしくいられるかということである。もちろん、そのような事は科学の範疇からは外れるかもしれない。しかし科学者だからと言って、科学以外の事に対して無知であってはいけない。いや、科学者だからこそ、社会や哲学的な事にも思考を向けなければならない。そういう意味では、木村博士は科学理論を構築することには長けているかもしれないが、科学者としては失格だと言わざるを得ない。

人間社会の背景と言うものは、時代ごとに変わっていくものだ。そういう意味では木村博士の生きた時代の背景と言うものは今とは違うものであり、人間に対する考えというものも今と違うのは当然かもしれない。しかしその一方、時代が変わっても不変なものも存在する。そのような普遍的なものを理解することが、真理を探究する科学者にとって不可欠な要素でもある。そういう意味で、木村博士の議論は時代背景の違いを差し引いても容認できないものである。特にこれからの時代は、科学者は科学だけをやっていればそれで良いという時代ではない。倫理や哲学、そして人間の心など、あらゆるものに目を向け、思考と想いを巡らさなければならないと僕は強く感じている。

挑戦!

いつからだろうか?僕は挑戦というものに強いこだわりを持つようになった。学問における挑戦、私生活における挑戦、社会における挑戦、そしてお金に対する挑戦。今の自分は挑戦なしに語れない。するか?しないか?と問われればほとんどの事に挑戦するつもりだが、もちろん無駄な挑戦までする必要はない。しかし挑戦は僕の人生における原動力だ。挑戦抜きに今の僕の人生は語れない。

僕の挑戦において一番重要なのは、言うまでもなく学問における挑戦だ。専門は数理物理だが、最近はあらゆる学問が面白い。だから様々な学問に取り組んでいる。そしてそれらの学問が、専門分野にも有機的な好影響をもたらすと考えている。

学問、私生活、社会、お金。これらに対する挑戦は全てつながっていると考えている。もちろん優先順位を付けることは重要だが、それらの有機的なつながりを忘れてはいけない。

今、これらに対する結果が出ようとしている。この「今」が今年になるか?来年になるか?その先になるか?まだはっきりしないが、少なくとも近い将来総合的な結果が出ると手ごたえを感じている。結果は勝手に出るのもではなく、自分で出しに行くものである。だから挑戦なしに結果は出ないと思っている。

今、人生が非常に充実している。人生で三番目に苦しい時ではあるが、挑戦し続けることによって大きな充実感を感じている。一年後が楽しみである。そして一年後、本当に楽しんでいられるように、全ての挑戦すべき物事に全力で取り組んでいこうと思う。

世の中ってのは。。。

世の中というのは、強い者の味方だ。それは社会においてもそうだし、スポーツの世界においてもそうだ。別に味方になってもらうために強くなるわけではないが、ただ自分の実力を向上させて強くなることは重要だと思う。

しかしどんな人間にも、強い側面があれば弱い側面もある。100%強い人間なんていないのかもしれない。だから強い人間は弱い人間を助ける必要がある。それは社会的に権力があり強い存在である政治家が、一般市民を助ける必要があるように。しかし現実には、強い政治家が強い者の味方になっていることが散見される。

人間として強くありたいと願うことは普通だと思う。誰も弱くなりたくて弱くなっている人間はいない。弱い側面を強くすることが重要か?それとも強い側面をより強くすることが重要か?どうやら日本社会では前者の方が重視される傾向がある。それはそちらの方が社会的に大きなメリットがあると考えられているからかもしれない。一昔前までならそれでよかったかもしれない。しかし現在は、社会も学問の世界もあまりにも大きくなりすぎている。だからすべての事において力を発揮するということはほとんど不可能である。だから自分の得意分野を徹底的に伸ばし、不得意分野をそれが得意な人に任せるという体制が必用ではないか。

社会において、全てをそつなくこなす人もそれなりにいる。しかしそのような人の多くは、全ての事において「可もなく不可もなく」という無難な人間になってはいないだろうか。しかし、一つの事にこだわり、タコツボ化するのも良いとは言えない。一つの事だけしかできない人より、二つの事ができる人の方が良い。専門は複数持つべきだと思う。例えば、数学とファッションでもよい。いやむしろこのように大きくかけ離れたことを同時にかけ持つ方がより良いのかもしれない。

意外とすべての事は有機的につながっている。このような有機的なつながりを強さに変えて、そして弱い人を助けられる人間になりたいものであるが、そこまで精神的な余裕を持つことは簡単ではない。しかしいつかはそのような事ができる大きな器を持った人間になりたいものである。

理論の力。

科学においても社会においても、理論なしで物事は語れない。もちろん、理論だけで語れないことも多いが、科学においては理論と実験は両輪であり、社会においても理論と実行は両輪である。

科学の研究を行いたいと思う時、どのような事を想像するだろうか?おそらく多くの人は、試験管をグルグル回しながら実験している姿を想像するのではないだろうか?そして実験などしようにも、施設も実験器具もないし、大金もないので、できないに決まっていると思い込んではいないだろうか?そこでだ。科学は実験だけで成り立っているのではない。実験結果から理論を構築し、そして理論を実験で確かめる。すなわち理論があるではないか!実験ができなければ理論を行えばよい。基本的に理論はお金がかからない。とは言え、もちろん専門書を購入したり、論文を入手するためのパソコンとプリンターがいる。専門書は一般書に比べてもかなり高額である。しかしその気になれば理論はいつでも研究ができる。だから科学研究をしたければ、理論をすればよい。

理論は一般の人が思うより威力がある。よく理論を「机上の空論」だと言う人がいるが、確かに現実社会における生活においてはそのような事も多いが、科学においては多くの場合、理論は実験よりも強力である。その最たる例がアインシュタインの相対性理論であろう。

また、数学を行うのもかなり良い。専門的数学分野を研究するためにはかなり高度な知識がいるが、しかし現代社会においては、その気になればそこまで到達できる道は開けている。あとはどこまで頭脳を使って考えるかである。なにより、数学はペンと紙だけで出来る。ペンと紙で宇宙を網羅することができるのである。

実験と観察の科学だと思われている生物学においても、理論は非常に重要だ。最近、進化学の本を読んでいるが、進化学というのは、自然淘汰に基づく数学(特に統計学と確率論)だと言って過言ではない。数学を駆使しないと進化さえも語れないのである。

理論は皆が思うよりも強力である。ならば理論をものにしない手はない。もし科学に対する興味と実行力があれば、今すぐペンと紙を用意して理論に取り組むのはどうであろうか?理論に魅了された一人として、理論の威力(と魔力?)を多くの人に感じ捉えてくれればと強く思う次第である。

スランプの克服。

先日、大スランプだという記事を書いたばかりだが、ここ数日、大スランプ脱出のヒントを得られた(かもしれない)。スランプ脱出の一番難しいところは、そのスランプの原因がはっきりしていないことだ。だから何を改善すれば良くなるのかということがなかなか絞り込めない。しかし場合によっては、数個の要因まで絞り込めることがある。もしそこまで絞り込めたのなら、とにかく試行錯誤して探っていくことが必用だ。

僕もここ数か月、様々な試みを行って改善を図ってきた。しかしなかなか改善の糸口が見つからない。そのうち、状況は少しづつ悪化してきている。しかし、あきらめずに試行錯誤を続けることによって、一つの原因を突き止めた(と思っている)。その原因はあまりにも身近にあり、また長年抱えていた悩みでもあった。しかし、その改善を行うことは普通の人なら簡単な事であるが、僕にとっては究極的に難しいことである。しかしその点を改善することにより、状況は確実に良くなってきている。

スランプを克服するために必要なことは、一つは「実行力」、そしてもう一つは「思考力」である。僕は徹底的に考えた。スランプの原因は何なのか?時間は少しかかったが、その原因を突き詰めることができたようだ。それができたら、次は実行である。思考と実行は物事を成し遂げるための両輪であり、それはスランプ脱出においても例外ではない。プロ野球選手がスランプに陥るという話はよく聞く。そこから脱出できるかどうかは、その両輪を機能させることができるかどうかだと思う。プロ野球選手だから、実行力はずば抜けてあるだろう。なので後は頭を使うことができるかどうかだ。イチローがスランプに陥ったと言う話はほとんど聞かなかった。それはイチローが極度に頭を使って野球に取り組んでいたからではないだろうか。

僕もスランプの原因にもっと早く気づき実行していたのならば、一年早く結果を出せていたかもしれない。しかしそんな過ぎ去ったことを言っても仕方がない。これからスパートをかけて、一刻も早く結果を出すことが求められている。しかし妥協は絶対にしない。これからが非常に楽しみである。

物理学の形式主義。

近年、物理学は、ますます形式主義に傾いてきているように思える。このような形式主義を批判する人も多いが、その一方、形式主義は多くの恩恵をもたらしてくれる。では物理学の形式主義とはどういうことか?それは「数学的形式」だと言える。そもそも、物理学はその誕生時から数学と密接に結び付いている。ニュートンが力学を打ち立てた背景には、ニュートン自身による微分学の定式化がきっかけとなっている。物理学は数学的定式化を成功させて初めて成り立つのである。

物理学の中でも、数学に対する依存度は様々である。物性理論よりも素粒子論の方が圧倒的に数学的である。さらには、数理物理のような物理学の数学的定式化自体を目的にしたものもある。物理学から数学を遠ざけることはある意味退化だと言える。しかしそれが退化だとしても、それに意味を見出し生き残っていく可能性は大いにある。しかし物理学の進化は数学の発展を用いて初めて成し遂げられることが多い。

20世紀中ごろ、数学界では構造主義という考えが吹き荒れていた。フランスの数学者集団ブルバキが強く推し進めていた考えであるが、僕はこのような思想は今の物理でこそ威力を発揮するのではと考えている。今の数学や物理学におけるキーワードは「多様化」であると僕は感じている。なのでそれらの学問を一つの思想の下でまとめることは不可能である。しかし僕は、物理学の構造主義を大きく推し進めて行きたいと考えている。

現在、学問の多様化を推し進めるあまり、全ての分野において平等化が起きているように思える。しかし多くの理論の中には、重要なものもあればそうでもないものもある。これらを一律に並べることは避けるべきである。なぜなら、一律に並べる、すなわち重要度を判断しないということは、物事の本質を掴めていないということである。しかし、まだ開花していない取り組みを評価することは非常に重要である。しかし、現在の評価基準は全く逆転している。ビジネスでベンチャー企業を支援することが重要であるように、科学でも可能性のあるベンチャー研究を支援すべきである。山中伸弥教授のiPS細胞は、そのような大きな可能性のあるベンチャー研究を支援することにより花開いたのである。

現在、科学の世界は多様化しているが、構造主義的に推し進めることは最も大きな可能性を秘めているのではないかと僕は強く感じている。

大スランプ。

年単位で考えれば、調子が良い時と悪い時がどうしてもある。このような調子の波をなくすことは、多くの人の課題であろう。一時的に調子が良いだけではなかなか目標を達成することはできない。一番大事なのは持続である。持続的に取り組み、持続的に成果を挙げていく。それによってさらに上にある目標も達成できる。

僕は現在、大スランプに陥っている。なかなか浮揚策が見出せないでいる。焦りもあるが、ビジョンはしっかりと保持しているので、そこは少し安心している。浮揚策を見出すために、様々な試みをしている。例えば筋トレやジョギングをして体を動かしたり、コーヒーやお酒を飲む量を制限したりとかだ。これとスランプの何が関係あるのか?と思われそうだが、意外とこのようなことが関係していたりする。だから些細な事でも、それが良い方向へとつながると感じれば取り組むことにしている。

もちろん、根拠のない取り組みはしない。では根拠とは何か?一つ目は科学的根拠であり、もう一つは経験的根拠だ。科学的根拠を判断するときには、疑似科学には注意しなければならない。世の中には疑似科学(エセ科学)が蔓延している。僕は数理物理という科学に取り組んでいるので見分けることができるが、本質を見抜くことができないと疑似科学に振り回されることになる。そしてお金も健康も失ってしまう。

現在の大スランプを脱出できるかどうかは、僕の実力にかかっていると思っている。そして常に自力本願を心がけている。険しい関所ではあるが、乗り切れる自信は大いにある。

「記憶」か?「思考」か?

記憶が良くて、思考も深い。これが一番理想かもしれないが、僕は記憶力が悪い。短期的記憶も長期的記憶も、どちらもかなり良くない方だ。しかし、記憶力が悪ければ思考でカバーすればよい。確かに記憶力が悪いことはかなり不便ではあるが、致命的ではない。しかしこの逆に、記憶力は良いが思考ができないとなると、数学や物理においては致命的だ。いや、記憶力が悪いだけでもかなり致命的かもしれない。しかし、思考力で何とかカバーしている。

世の中を見ていると、記憶力でものを言わしている人はかなり多いように見受けられる。しかし思考力でものを言わしている人にはほとんど出会わない。そもそも思考力があれば、ものを言わすという発想自体不必要なのかもしれない。「ものを言わす」という言葉は、自分の実力以上の威厳で押さえつけるという意味合いがある。しかし、思考力自体がその人自身の実力だと言える。だからものを言わす必要がないのだ。

数学を記憶力だけで進めることができるのか?確かに高校数学くらいなら記憶力でかなりカバーできる。いや、大学数学だってカバーできる。いや、既存の理論を理解するくらいなら記憶力で乗り越えられるかもしれない。しかし、新たな理論を作るとなると話は別だ。新しい理論の構築は、99%思考に依存している。だから思考力なしで理論の構築はできない、しかし記憶力があれば非常に便利だ。それは僕もひしひしと感じる。しかし記憶力が悪ければ、それはそれでよい。むしろ、記憶力が悪いからこそ思考の方に頭を使おうと努力できる。

最近、生物学に興味があり、ちょっとした生物学書を読むことが多い。とは言え、生物学の専門家でない僕の取り組みなど大したことはない。しかし生物学の論文くらいは読みたいものである。少し前、山中伸弥教授のiPS細胞の原論文に目を通したが、やはり専門用語などが分かり辛い。特に、遺伝子などの様々な名称が理解できなかったりする。生物学は昔から暗記の割合が大きい学問だと言われている。しかし現在の生物学はかなり論理的、化学的、物理学的になり、思考の割合が増えているように思える。博物学的な側面が強かった時代から見れば隔世的だ。しかし最低限の記憶は必要だ。記憶力の悪い僕が、副々専攻としての生物学をどこまで究められるか?これはある意味一つのちょっとした挑戦だと思っている。

「権力」対「知識」。

世の中には、自分の意見を通そうとするために権力を手に入れようとする人が多い。確かに権力を手に入れれば、自分の思うようになるように思える。しかし、自分の意見を通そうとするためには、もう一つの方法がある。それは「知識」による攻勢だ。これは簡単に言えば、銃で攻撃するか?ペンで攻撃するか?ということである。そして僕は迷わず、ペンを武器にすることを選ぶ。

僕には愛用している一本の万年筆がある。そのペンは僕が大学院に進むときに友人が贈ってくれたペンだ。だからかなりの年月になる。その一本のペンで数学や物理の研究を行い、インクのカートリッジはもう百本以上交換したのではないだろうか。その万年筆はもう僕の手足である。

ペンで理論を重ねれば、その力は国家権力よりも大きなものになると僕は考えている。とは言え、僕は権力を手に入れるために理論を重ねているのではない。ただ真理を見極めたいがためにペンで理論を重ねているのだ。しかしこの先、何らかの権力と対峙することもあるかもしれない。そのような時は迷わずペンを武器にしたい。

銃の威力は誰でも分かる。しかしペンの威力は、ペンを使い倒した人にしかわからない。だからこそ、ペンの威力を認識した人が一人でも必要なのである。この前の内閣改造で、河野太郎氏が外務大臣から防衛大臣へと横滑りした。今、日韓関係は、どうやら銃の威力の方へ傾いているように感じて仕方がない。しかしペンの威力、すなわち正常な外交の力を最大限に利用しなければならない。もちろんこのためには、日本だけでなく相手側にも良識が求められる。これから河野太郎氏が相手側の良識を引き出せるか?河野氏の手腕にかかっている。

東電を廃炉に特化した企業にすればどうか?

電力会社とは、一言で言えば電気を売って儲ける会社だ。しかし現在の東京電力の置かれた立場は複雑だ。今東電が抱えている最も大きな課題は、誰が見ても福島第一原発問題であろう。もちろん福島第一原発は廃炉にするしかないが、この原子炉の廃炉は非常に困難な作業だ。原発を作ることは今ではそんなに難しい作業ではないかもしれないが、原発を廃炉にする作業は技術的にもまだ確立されているとは言えない。さらに、震災で被害を被った福島第一原発の廃炉作業は、その何十倍もの困難が伴う。そもそも廃炉が上手くいくかどうかもわからない状況だ。

そこでだ。この東電が抱えている一番の問題である廃炉作業を、東電のメイン事業にするのはどうかと僕は思っている。東電が置かれている立場の一番の困難は、福島問題を解決しながら発電事業を行わなければならないということではないだろうか。そのような事に対して、「発電事業=ビジネス(利益)」、「廃炉作業=負債(損失)」と捉えられているかもしれないが、その廃炉作業をビジネスにしてしまうのはどうかと僕は考えている。廃炉には非常に高度な技術が必用であり、世界的にもこのような廃炉をビジネスとして行っている企業は僕は知らない。もしかしたら僕が知らないだけで、廃炉をビジネスにしている企業は海外にあるのかもしれないが、今廃炉を待っている原発は世界にたくさんあるはずだ。

今東電は、否が応でも廃炉を実行しなければならない。もし東電が廃炉技術を確立させビジネスにできると、この先数十年は非常に大きな利益を得られるのではないだろうか。そしてそこで得た利益を、福島の被災者の賠償にも回すことができる。それは東電に対しても、福島市民に対しても、そして原発のある世界各国に対しても、全ての利益になるのではないだろうか。廃炉というものをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えていくという思考的変換が必要である。

現在、小泉進次郎氏が環境大臣になり、原発問題に大きく取り組もうとしている。父の小泉純一郎元首相は、原発ゼロを声高に発信している。進次郎氏が父の意志を継ぎ、原発ゼロを遂行するためにも、東電の廃炉ビジネス化は大きな力になるのではないだろうか。そして廃炉を負債と捉えるのではなくビジネスと捉えることは、東電社員の意欲を大きく向上させるのではないだろうか。これからは原発建設の時代ではなく、廃炉の時代だ。東電が廃炉のビジネス化に成功すれば、巨大なビジネスになるはずだ。そしてそれは回り巡って、福島の被災者のためにも大きな力になるはずだ。

まず攻めがあって。

僕は人生をとことん攻めて行くとよく言っているが、だからと言って守りを考えない訳ではない。防御に関しても最強である必要があるが、しかしそれらの防御は攻めがあって成り立つものでなければならない。だからここぞという時は丸腰でも攻めて行くことにしている。一番危険なのは、自分を守ることが第一条件になってしまうことだ。

時には、人を守るために攻めて行かなければならない時がある。「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、攻めの姿勢のない防御は崩れ去るのも早い。そして攻めのない防御は、その場しのぎでしかないことが多い。つまり長期的視点に欠けている。長期的視点とは、「今損をして、将来得をする」ということである。そしてそれによって利益を最大化することができる。しかし、その戦法が常に功を奏すとは限らない。つまりリスクがある。ではどう考えればそのようなリスクのある行動に出られるのか?

そのためには、一度損得勘定を抜くことが必用だ。損得勘定以外の事、つまりリスクさえもスリルと考えて楽しむとか、また長期的構想の構築自体を楽しむとか。つまり全ての事を楽しむのである。究極的には苦しみさえも楽しみにすればいい。そしてその苦しみを乗り越えれば、達成感を感じるのもいいと思う。意外と窮地に陥っている時の方が、人生が充実していることも少なくない。今の僕の人生はそのようなものである。

とは言え、僕でもくだらない守りに入ることもよくある。そのような時は、そのような自分に落胆する訳ではあるが、同時にそのような自分をどう変えていくべきかということを徹底的に考える。それによって自分を変えるにはそれなりに長い時間がかかるが、75%くらいのことは変えられているように思える。「本当の自分」とは、今のありのままの自分である必要は全くない。自分を自分の思う方向へと変えることができれば、それも本当の自分なのである。本当の自分を常に変革するためにも、常に人生を攻めて行くことが必要である。

科学を専門にしているからこそ。

科学の研究者は、全ての物事を科学的に考えていると思っている人がいるかもしれない。確かに、全ての物事、日常的な物事を科学的に考えている研究者は多いかもしれな。そしてそれは多くの場合正しいかもしれない。しかし人間が生きるにおいて、科学的な解釈一辺倒ではどうしても乗り越えられないこともある。例えば人間の心だとか、恋愛だとかだ。もちろん現在では、人間の心さえも科学的研究の対象になっている。それは非常に高度な科学であり、非常に面白く意義のあることである。僕が言いたいのは、そのような心の科学研究に対してではなく、日常の人付き合いだとか人生に関してである。

とは言え、もちろん宗教とかそのような事を言っているのではない。僕の中では宗教などは論外である。人の気持ち、心、そして交流、このようなことを全て科学的な判断で動いていれば、多くのものを失ってしまう。もちろん、判断に困ったときに、科学的決断をすることは重要である。しかし、恋愛に科学を持ち出すバカもたまにいる。そしてそういう人に限って、科学を全く理解していない場合が多い。科学を持ち出すべきでない意義を理解するためには、科学的本質を理解することが不可欠だと僕は思っている。

このようなことからも、専門の科学だけでなく、科学全体を見渡せる力を付けることが重要である。科学以外のことを理解するためには、科学を理解することが必要なのである。これは、ジェネラリストになるためには専門を極めることが必用であり、またスペシャリストの道を極めるためにはジェネラリスト的な深い教養が必用だということである。

人の心を深く理解するためには、科学と感性の両方を磨かなければならない。物事を全く違う二つの側面から見るのである。そうすれば、第三の面が見えてくる。そのように多角的に物事を深めていけば、科学の理解も心の理解もさらに深めることができる。人間には物理的には備わっていない第三の眼を、多角的思考によって身に付けることは、決して不可能な事ではない。

図書館“も”利用する。

少し外出したついでに、久しぶりに市の図書館に足を運んだ。僕はこれまでは基本的に、読みたい本は全て買うことにしていたが、やはり読みたい本を全て買っていれば財布の中身が厳しい。図書館に足を運んで新刊本コーナーを眺めていると、少しではあるがなかなか面白そうな本が置いている。そこで面白そうな本をまとめて借りる手続きをすることにした。

面白そうではあるが、一回読めば繰り返し読みそうな本ではない。仮に繰り返し読みたければ、その時その本を買えばよい。とは言え、必要な専門書はこれからも基本全て購入する方針だ。しかし一般書籍はむしろ図書館で積極的に借りる方が良いのかもしれない。それで浮いたお金を専門書の購入に充てることもできる。

「図書館‘‘を’’利用する」ではなく、「図書館‘‘も”利用する」と言った方が正しい。そもそも、市の図書館に専門書が置いているわけではないので、そこは利用しようにもどうにもならない。そして、専門書は手が届くところにあって、手を伸ばせばすぐに取り出せることが重要だ。

これからも、必要だと思われる専門書は湯水のごとく?購入しそうだ。もしかしたら、書籍エンゲル係数だけは誰にも負けないかもしれない。

「資本主義」の次。

現在様々なところで、資本主義の次、つまり「ポスト資本主義」が模索され提言されている。資本主義の次が模索される理由は、多くの人が現在の資本主義体制に対して限界を感じているからだ。では現在の資本主義のどこが限界なのか?一つは格差の拡大である。これについては現在様々なところで取り上げられているが、いまいち決定打となる解決策は見出されていない。もう一つはITの急激な発達、ネット社会の急激な拡大であろう。ITの発達はボーダーレス化を促進させ、つまり国境という概念が希薄になって来ている。日本にいながら世界のどこにいる人とも瞬時にやり取りができ、ネットで世界の様々なコンテンツにアクセスできる。

このような事から、これまでの資本主義体制が限界を表し、否応にもポスト資本主義を考えざるを得ない状況を生んでいる。しかしこれは、中国のような共産主義が正しいと言っているわけでは全くない。確かに中国は急速な発展を遂げている。しかし中国の状況は資本主義国家よりもひどいと言える。その最たる例は、国家による国民の監視である。皮肉なことに、ITの発達は国家による監視を極度に容易にすることとなった。一見、ITの発達は大きな自由度をもたらしたように思える。しかしこれは「檻の中の自由」だと言える。しかし檻の中にいる自由人は、自分が檻の中にいることに気づいていない。

これまで我々は、資本主義こそが正義だと教えられてきた。確かに資本主義はこれまで様々な富を多くの人にもたらしてきたのかもしれない。これは逆に言うと、現在の資本主義の限界は富の力の限界だと言える。極論を言うと、昔は金さえあれば何でもできるという面があった。しかし現在はお金の価値の限界が露呈している。例えば、AIが発達するにつれ、人間性というものが重要視されてきているのではないかと思う。明らかに人間性はお金で手に入れられるものではない。コンピューターが発達するにつれ、自分の人間性というものを強く自覚する必要が出てきた。これまでは自分が人間であることなど、あえて考えなくても無意識に自覚する事が出来た。しかし効率性重視の現代社会では、それさえも難しくなってきている。

僕は幸運なことに、数理物理という人生を懸けるものに出会うことができた。それによって自分の意思が簡単に揺らぐことはほとんどない。自分の人間性を確立するためには、人生を懸けて取り組むものを見つけることが重要ではないだろうか?すなわち、人生の軸を作るのである。もし軸がぶれてしまえば、自分のやっていることなど瞬時にコンピューターに取られてしまう。そして怖いことは、それに自分が気づかないことである。もちろん、人間というものは千差万別である。だから個人的なアプローチの仕方は様々ある。しかしどの人間も、国という土地とシステムの中に生きている。だからどのような国であるかが非常に重要であり、それが個人の生き方にも大きな影響を与えることになる。なので資本主義が限界を表している現在、その次を真剣に考えることが非常に重要になって来ている。

たまにお酒を飲むのがいい(かも?)。

お酒は体や脳に良いのか?と問われると、現在では99%(100%?)良くないと言われている。昔は少量のお酒ならむしろ健康に良いとも言われていたが、最近の研究の結果によると、少量のお酒でも健康に良くないということが明らかになっている。少量のお酒は薬になるという言葉は、お酒を飲む人が自分を正当化するために言われた言葉かもしれない。

しかし時には、お酒を飲むことは気分転換になる。そのためにお酒を飲むという人も多いだろう。確かに健康には99%(100%?)良くないかもしれないが、たまにお酒を飲んで気分的に調子が良くなるのならばそれもありであろう。特にストレスがたまっている時などは、お酒で気分をやわらげようとしたくなる時もある。それはそれでありだと思う。

しかし「お酒は飲んでも飲まれるな!」とよく言われる。これが非常に重要である。お酒に溺れて依存になれば、100%悪い方向へと進む。だからある程度自制をかけることが必要である。僕自身はお酒はかなり好きな方だが、現在はお酒を飲まない日の方がだいぶん多いし、たまに飲むときも缶ビール一本か二本くらいで抑えている。そのおかげで、体も精神的にも良い状態を維持できている。

体と精神は、自分でコントロールすることが必要である。そのためにはお酒は極力飲まない方が良いかもしれない。しかし人と飲むことは非常に楽しいものだし、それで付き合いが円滑に進むのならば飲まない手はない。ここでもやはりリスク対効果という考えが重要だ。健康面でのデメリットと、それ以外の面でのメリットを比較してみる。そう考えると、たまに飲むのはメリットは大きいのではないか?ということで、一週間に一度(か二度)くらいはお酒を飲むのは悪くないと思うがどうであろうか?

未来はとてつもなく明るい!

明るさの評価には二通りの方法がある。一つは絶対的な明るさ、もう一つは相対的な明るさだ。絶対的な明るさというものは、測定器を使って正確に測ることができる。人間の人生の明るさで言えば、例えばお金だとかであろう。もちろん、お金だけで明るさを測れる訳でなく、あくまで一側面を評価したに過ぎないが、お金は数値で厳密に測ることができる。相対的な明るさは、つまりコントラストである。それは同じ一万円を所持していても、お金持ちが持つ一万円と貧乏な人が持つ一万円では全く価値が変わるということである。

人間の人生を測るとき、どうしても絶対的なものにこだわりがちだ。しかし実際に感じる明るさは、相対的なものの方がより感じやすいように思える。では、絶対的な明るさと相対的な明るさのどちらを重要視すべきか?もしこの質問に迷うのなら両方手に入れればよい。しかしそうは言っても、これは簡単な事ではない。もしかしたら普通に平凡に暮らすことを望む人もいるだろう。そこはそれぞれの人の価値観の違いである。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。

今僕は、非常に明るい未来が見えている。未来が楽しみで仕方がないのである。しかし現在はまだ光の中にはいない。だから自信はあるが実感は全くない。今の僕を支えているのは明確なビジョンである。このブログでも何度も引用している山中伸弥教授の言葉「VW(ビジョン&ワークハード)」、全てはこの言葉が表している。従って、後はワークハードをするのみである。いや、ビジョンもどんどん更新して進化させていかなければならない。

リスクには目に見えるリスクと目に見えないリスクがある。目に見えないリスクというものは、誰もが無意識に取っているものだ。しかし目に見えるリスクは多くの人は避けようとする。例えばお金に関するリスク、あるいは人生に関するリスクなどだ。しかしこの目に見えるリスクを取れるか取れないかが意外と人生を大きく左右する。リスクを取り続けている時、大概人生はどうしても暗くなりがちだ。しかし未来の人生は非常に明るいように思える。これだけの未来の明るさを感じれるのは、人生において挑戦し続ける者の特権かもしれない。あとはそれを実現するのみである。